でつけたのだと私に語つた事があつた。私達友人仲間ではお貞さんお貞さんと親しんで呼んでゐた。さて水野仙子年譜によるとお貞さんは、
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明治二十一年十二月三日、福島縣岩瀬郡須賀川町に生れた。服部直太郎氏の三女である。長兄に服部躬治氏がある。氏は名高い歌人であつて明治三十年代の新派歌人として斯界に重きをなして居た人であつたが、其頃金港堂から少女等の爲に「少女界」といふ其時代としては高級な少女雜誌がはじめて發刊された。編輯は神谷鶴伴といふ人であつたと記憶されてゐるが、其雜誌の歌壇の選者が服部躬治氏であつた。
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 お貞さんとのそもそもの交渉は實に此時代にはじまる。
 此少女界は其時代、外に全く少女の讀物とてはない時代の事とて今日の人々が思ひ及ばぬ程一般の婦人達に愛讀されたものであつたが、氏の選によつて少女歌壇に私も投書して少女界の歌壇に時折入選するやうになつたが、服部貞子の名が知れだしたのも此時代の事である。森律子さん、其姉の森政子さんなどの歌も知れ渡つていつたものであつた。明治も晩年の頃の事とてお貞さんとは少女界の縁で私の姉、其時代山田花子といつたが、姉と互に手紙の往復がはじまつた。いま一人根本松江といふ人があり、又須賀川から一里程はなれた郡山町に「お初ちやんといふ人があつて互に文通した。此人がお貞さんの友人で、又私たちにも友人であつたが、これがお貞さんの小説の『娘』のなかのお粂《くめ》ちやん」である。
「二つとや……二つ二葉屋のお粂さん……お粂さん、赤い襷で砂糖かけ……砂糖かけ」
といふ町の子守娘などがうたつた唄になつた人であつた。それから私たちは誰がはじめたともなく其新しい雜誌少女界の投書をやめてしまつた。そして自然に移つていつた其時代唯一の婦人文藝雜誌であつた女子文壇といふのは明治三十八年一月から發行されたものであるが、主宰者として詩人河井醉茗氏が居り、其詩壇を擔當して居つた。島崎藤村氏も寄稿家であり、與謝野晶子氏も窪田空穗氏も寄稿家であつた。
 小説も募集されてゐるし詩歌はもとより評論、隨筆すべて文學に關して深切な指導をしてゐた明るい快い文學的の雜誌であつた。或る日私の姉がそれを一册上諏訪町(現在の諏訪市)から買つて家へ持つて歸つた。そこで私たちははからず少女界時代の馴染の人々の名を見た。服部貞子氏は創作欄で奮つて居るし、
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