が好きになつてしまつた。
「好漢愛すべし」この言葉は私の山中に対する感情を言い得て妙である。
監督協会の成立とともに日本の監督の九十パーセントを私は新しい知己として得たし、この中には随分偉い人も好きな人もあるがまだ山中ほど愛すべきはいず、山中ほどの好漢もいない。私の見た山中の人間のよさや味はその作品とは何の関係もない。私はあの春風駘蕩たる彼の貴重な顔を眺めながら神経質な彼の作品を思い出したことは一度もない。
だいたい彼の顔はあまり評判のいいほうではない。私も最初は彼の顔などてんで問題にもしていなかつたのであるが、何度も会ううちあの平凡きわまる顔が実は無限の魅力を蔵していることに気がつきはじめた。またしても引合いに出すが、監督協会の他の人々の中にも随分いい顔や好きな顔がないではないが、山中の顔のごとく長期の鑑賞に堪えうるものは極めて少ない。ことによるとあの顔は山中の人よりも作品よりも上を行くものかもしれない。近ごろ見飽きのしない顔ではあつた。
思うに山中の本当の仕事はことごとく将来に残されていたといつても過言ではなかろう。自分の知る範囲においてその人がらや性質から彼の仕事の本質を推定するとき、過去における彼の仕事のごときは決して彼の本領だとは思われない。もしもいささかでも作品に人間が現われるものならば、彼の作品はもう少し重厚でなければならない。稚拙でなければならない。素朴でなければならない。もう少し肉太でなければならない。もう少し大味でなければならない。また彼の京都弁のごとく、大市のすつぽん料理のごとく、彼自身の顎のごとく、こつてりとした味がなくてはならない。そして彼が出し切れなかつたこれらすべてのものは、もしも天が彼に借すに相当の歳月をもつてしたならば彼は必ず作品のうえにこれをみごとに盛り上げてみせたに違いない。
しかしそれならば過去において彼が描いてみせたようなあまりにも才気に満ちた傾向の作品というものはいつたい彼のどこから出てきたのか、いうまでもなくそれは彼の胎内から生れ出たものには違いない。一見たんなるお人よしのようにも見える彼の一面に非常に鋭いものが蔵されていたり、そのまま仏性を具現しているような彼の顔に、どうかした拍子に煮ても焼いても食えないようなずぶとい表情が現われたり、あるいはまたチラとこす辛い色が彼の眼を横切つたりすることがあつたのと同じよう
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