な現象だと解釈すれば、あえて異とするにはあたらない。
ただ、なぜ特にそんな傾向の作品ばかりが現われたかという疑問に対しては、たぶん彼の環境がそうさせたのだろうと答えるほかはない。
山中はあまりに若くして監督になつた。周囲は彼に対してまずおもしろい写真を、しかしてかかる写真のみを彼に要求したにちがいない。
若い彼が一プロダクションの監督として、出発に間もないころを生きのびるためには、何としてもおもしろい写真を作るほかはなかつたろう。ところが幸か不幸か彼にはそうした才能があつた。かくて彼の才能は迎えられた。実際はかかる才能は彼の天分のほんの一部分にしかすぎなかつたのだが、周囲は(おそらくは彼自身も)それに気づかなかつた。彼の才能のある部分だけが拡大され酷使された。
そして彼は死んだ。
私の山中に関する感想はほぼ以上で尽きる。要するに彼のごときは(みな、他人ごとだと思つてはいけない。)才能ある人間が過渡期に生れたため、その才能を畸型的に発達させられた一例であつて悲劇的といえば悲劇的であるが、ちようどそういう時に出くわしたればこそ我々同時代のものは才気煥発する彼の一連の作品によつて楽しまされたとも考えられる。
さもあらばあれ、すべては終つてしまつた。
「恥ずかしい、もう娑婆のことはいわんといてえな」と、どつかの雲の上で山中が顎を撫でてつらがつている声が聞こえるからもうこれくらいでよす。私の粗野な文章はあるいは死者に対する礼を欠くところがあつたかもしれない。しかしかかる駄筆を弄したのも一にそれによつて山中を偲ぶよすがともなろうかと思つたからである。(十月十八日)[#地から2字上げ](『シナリオ』昭和十三年十一月臨時増刊・山中貞雄追悼号。原題「人間山中」)
底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「シナリオ 昭和十三年十一月臨時増刊・山中貞雄追悼号」
1938(昭和13)年11月
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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