政治に関する随想
伊丹万作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)名を騙《かた》る

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 私は生れてからこのかた、まだ一度も国民として選挙権を行使したことがない。
 私はそれを自慢するのではない。むしろ一つの怠慢だと思つている。しかし、ここに私が怠慢というのは、私が国民としての義務を怠つたという理由からではなく、たんに芸術家として、与えられた観察の機会をむだにしたという理由からである。すなわち、いまだかつて投票場に近寄つたこともない私は、投票場というものがどんな様子のものかまつたく知らない。したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。そして、それは明らかに私の怠慢からきている。このような意味においては私は自己を責める義務があるが、その他の意味においては少しも自己を責める義務を感じたことがないし、今でも感じていない。
「選挙は国民の義務である」ということは、従来の独裁政治、脅迫政治のもとにおいてさえ口癖のようにいわれてきたが、そのような政治のもとにそのような言葉が臆面もなく述べられていたということほど、国民を侮辱した話はない。
 選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。
 なるほど国民の一部には選挙権が与えられ、有権者は衆議院議員を選挙することができた。しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。
 政治をしない議員を選出するための選挙が国民の義務であり得るはずはない。いわんや、このようなむだな投票を棄権したからといつて、私は毫もおのれの良心に恥ずるところはない。むしろ、日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。
 こうして、私は投票は例外なく棄権することに決めていたから、投票日がいつの間に過ぎたかも知らず、議会の経過を報道する新聞記事にも眼を通すことなく、要するに私にとつて、我国の政治というものは世の中で最も愚劣で、低級で、虚偽と悪徳に満ちたものとして、いかなる意味でも興味の対象となり得なかつたのである。
 しかし、今は事情がすつかり違つてきた。国民の選んだ人たち、すなわち国民の代表が実際に政治を行うという夢のような事態が急にやつてきたのである。
 こうなると、選挙というものの意味は従来とはまつたく違つてくるし、したがつて私も選挙、ひいては国の政治ということに至大の関心を持たずにはいられなくなつてくる。
 いつたい、今まで私のように政治に対してまつたく興味を持たない国民が何人かいたということは、決して興味を持たない側の責任ではなく、興味を奪い去るようなことばかりをあえてした政治の罪なのである。国民として、国法の支配を受け、国民の義務を履行し、国民としての権利を享受して生活する以上、普通の思考力のある人間なら、政治に興味を持たないで暮せるわけはない。にもかかわらず、我々が今まで政治に何の興味も感じなかつたのは、政治自身が我々国民に何の興味も持つていなかつたからである。
 そもそも「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
 それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ず
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