る。
 なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。このことは、従来国民として、いかなる行為が最も道徳的なりとして奨励せられてきたか、いかなる人々が最も迫害をこうむつたかを実例について具体的に検討してみれば、だれにも容易に納得の行く事実である。
 すなわち、今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙《かた》ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
 しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。
 もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
 しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
 特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。
 この根本を、しつかり把握しさえすれば、現在我々が直面しているもろもろの事態に対処して行くうえに、おおむね誤りなきを期することができるはずである。たとえば、今回の選挙に際しても、多くの候補者のうちから、きわめて乏しいほんものをえり分けることは決してむずかしいことではない。
 現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
 試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
 このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
 このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
 では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人
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