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伊丹万作

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#天から3字下げ]
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 この一文は私の友人の著書の広告であるから、広告のきらいな方はなにとぞ読まないでいただきたい。
 このたび私の中学時代からの友人中村草田男の句集が出た。署名を『長子』という。
 一部を贈られたから早速通読して自分の最も好む一句を捨つた。すなわち、
[#天から3字下げ]冬の水一枝の影も欺かず
 草田男に会つたときこの一句を挙げて賞したところ、彼もまた己が意を得たような微笑をもらしたからおそらく自分でも気に入つているのであろう。
 彼は早くから文芸方面の素質を示し、いかなる場合にも真摯な研究態度と柔軟にして強靭なる生活意欲(芸術家としての)を失わなかつたから、いつか大成するだろうと楽しみにしていたのであるが、この著書を手にして私は自分の期待の満される日があまりにも間近に迫つて来ていることを知つて驚きもし、歓びもした。
 私は中村の著書の中に、子規以来始めて「俳句」を見た。
 もつと遠慮なくいえば芭蕉以後、芭蕉に肉迫せんとする気魄を見た。
 私には詩はわからない。なぜなら私は散文的な人間であるから。
 しかし私のいだいている概念からいえば、詩というものはひたすら写実の奥底にもぐり込んで、その奥の奥をきわめた時、あたかも蚕が蛾になるように、無意識のうちに写実のまゆを突き破つて象徴の世界に飛び出すものでなければならぬ。そしてそれはいかなる場合においてもリズムの文学でなければならぬ、少なくとも決してリズムを忘れ得ない文学でなければならぬと考えている。
 そして、私のこの概念にあてはまるものは残念ながら現代にはきわめて乏しい。
 そこへ中村の『長子』が出た。
 私は驚喜せずにはいられない。
 これこそ私の考えている詩である。彼こそは私の描いた詩人である。
 しかも、それが自分に最も近い友人の中から出ようとは。しかも、現代においては危く忘れられかけている「俳句」という、この素朴な、古めかしい、単純な形式の中に詩の精神がかくまでも燦然たる光を放つて蘇生しようとは。
 最初、中村から「俳句」をやるという決心を聞かされたとき、私はこのセチがらい時勢に生産の報酬を大衆層に要求し得ないような、そんな暇仕事を選ぶことについて漠然たる不満と同時に
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