の一にも足りなかったと思う。)の事実を素通りしてはまったく意味をなさない。
現在東京の銭湯に通っている癩患者は推定八十人もいるそうだが、政府の役人も、映画製作者も、観客もそのような現実に背を向けて夢のように美しい癩の映画を見て泣いているのである。
いったい癩はどこにあるのだ。決してそれは瀬戸内海の美しい小さい島にあるのではない。それは疑いもなく諸君の隣りにあるのだ。遠い国のできごとを見るようなつもりで映画を見て泣いてなんぞいられるわけのものではないのだ。
我々は個人の運命としての癩をどうすることもできない。ただ、もう偉大なるその暗黒的性格に、圧倒されるばかりである。それは客観的にはいかなる意味でも救いがない。そうしてこのようにいかなる意味でも救いのないものは所詮芸術の対象として適当なものとは考えにくいのである。
しかし、社会問題としての癩は、その解決が必ずしも至難ではない。先進諸国の例に見ても、隔離政策の徹底的遂行によって、癩はほとんど絶滅あるいはそれに近い状態に達している。したがって、現在のところ我々が癩問題に対する唯一の正しい態度は、隔離政策の徹底によって癩を社会的に解決し
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