ようとする意志に協力する立場をとる以外にはあり得ないと思う。そして原著『小島の春』においては明らかにこのような立場をとっている著者の姿をうかがうことができるのである。しかしシナリオによって想像する映画「小島の春」は癩の解決などということよりも小川正子さんのしろうとくさい和歌のほうに多くの関心を示しているかのようである。
 癩のような、人生の大問題を扱った場合に、何よりもまず作者がその解決をどう考えているかということを我々が知りたく思うのは決して無理ではあるまい。もっとも答にもいろいろある。具体的の場合もあれば、抽象的の場合もあり、あるいは象徴的の場合もある。ずいぶんわかったようでわからぬ場合もあるが、作者がそれに関心を持ち、責任を感じ、答をさがす努力を惜しまなかったことさえわかれば、我々はそれで満足する。しかしその反対の場合には、我々は不満を通り越してその種の題材の選定を否定するところまでひっ返さなければ気がすまなくなる。
 しかし癩に関する映画が、たとえどのように正しく扱われ、正しく描かれていたとしても、私一個人はやはりそれを見たいと思わないし、そのような題材を劇映画で扱ってもらいた
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