癩は機会のあるごとに我々の耳へ口を寄せ、こういってささやく。「おれを肯定しないで人生を肯定したって、そんなのはうそっぱちだよ」と。
かくて、いまや我々は癩というものを単なる肉体の病気の一種としてのみ理解しているのではない。むしろ人生における、最も深刻なる、最も救いのない不幸の象徴として理解しているのである。
どんな不幸な人をつれてきても、「まア癩病のことを思えばいいじゃありませんか。」という慰めの言葉が残っている。しかし、癩病の人に何といったらいいか。上を見ればきりがない、下を見なさいと人はいうが癩者にとってはその下がないのだ。まことに、これこそ人生のどんづまりである。すなわち癩の問題に触れることは「人生の底」に触れる意味を持つ。
さて、一応以上の意味を了解したうえで、ここに一つの疑問を提出してみたい。つまり、芸術家として、癩を扱いながら、しかも人生の底に触れることは、なるべくこれを避けようとする態度は正しいことであるかどうか。
次に、芸術家の好むと好まざるとにかかわらず、映画というものは、その持ちまえの表現形式があまりにも具体的でありすぎるため、癩者の現実を直接かつ率直に描写
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