て見え、顔というよりも、むしろ何か極めて薄い膜を根気よく張り重ねてこしらえた不規則な形の箱のような感じがした。
私は、ちらと見た瞬間、それらのことを感じると、今度は反射的に息をころしながら、道端の草の茂みの中へ踏み込んでそこを通り抜け、駆け出さんばかりにしてそこを遠ざかった。
また、八十八カ所の霊場である石手寺の参道には両側ともびっしりと乞食が坐っていたが、その大半は癩者であった。彼らが参詣人から与えられる小額の銅貨を受け取るため、絶えず前に突き出している手にはほとんど五指がなかった。我々はそれを見るのがいやさに、この参道を駆け抜けるのが常であったが、あとで生姜《しょうが》を見るたびによくその手を思い出した。そして石手という地名は我々の間ではしばしば癩の隠語として用いられるようになった。
このような環境に育った我々が、ややもの心がついてくるにしたがって、いやおうなしに癩の運命について考えさせられたことは少しも不思議ではない。そればかりでなく、我々が人生について、宗教について、恋愛について考え始めると、癩はいつも思考の隙間隙間へ忍び込んで、だまって首を振っているようになった。そして
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