することは最初からまったく許されない運命にある。すなわち癩のあらわれとしての最もシリアスで、同時に最も本質的な面は当然これを忌避しなければならぬことになる。
 これをいいかえるならば、癩を扱う場合、映画は、自己の表現能力の特質を、すなわち、具体的表現という、自慢の武器を使用することをやめなければならぬ。しかるに、映画的題材とは、映画の表現能力を、力いっぱい出しきれるような対象の謂《いい》でなければならぬ。
 最初から映画的表現を封じられ、はらはらしながら、そこをよけて通らなければならないような題材をえらぶこと、いいかえれば映画作家として映画的表現に適しないものを取り上げることがなぜ良心的なのであろうか。そして、それがなぜ企画の勝利といわれるのであろうか。
 映画「小島の春」が抒情的で美しいということはいったい何を意味するのだろう。叙情的で美しい絵を作ることが最初からの目的であるなら、何を苦しんで癩のような材料を選ばなければならないか。それはおよそ目的からは一番遠い材料ではないのだろうか。
 映画「小島の春」を見て泣いたという人が多い。私自身も「小島の春」を見れば、あるいは泣くかも知れないと思う。しかし芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判のらち内においては人間の涙というものをいっさい信用しない。
 とはいえ映画で人を泣かせることには一応の困難が伴うことは事実である。普通の映画で客が泣くまでに我々が費している手続きと思考は大変なものである。
 観客の理解と同情と感激とを要求するに足るだけの条件、すなわち悲劇の展開に必要なあらゆる境遇、あらゆる運命が手落ちなく描かれ、悲劇的なシチュエイションが十分に用意され、さてそのうえで悲劇的な演技が始ってこそ初めて客の涙を要求することができるのであるが、この映画においてはそのようなめんどうな手数をしはらう必要はない。いきなり癩患者(むろん初期)が出てきて抒情的な風景の中で家族と別れる場面などをやってみせれば、それだけで我々は無条件に泣かされてしまう。
 なぜならばこの場合においては、癩患者が癩患者であるということだけで泣くにはすでに十分なのであって、それは癩者個々の運命とは必ずしも関係を持たない。したがってかかる場合の観客の涙はその理由を作者側の努力に帰し難い部分が多い。
 しかし、映画の癩者を見て泣いた人が現実の癩者を見て泣
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