くかどうかは非常に疑問であり、芸術の世界と現実の世界とのこのような喰い違いは、一般にはほとんど問題にならないが、この種の作品においてはかなり重要な問題であると思う。
私がかつて漂泊の癩者を何人となく見てきた経験によると、現実の癩者を見て同情の涙をもよおすような余裕は、いっさいこれを持ち得ないのが凡人としてはむしろあたりまえだともいえる。こざかしい理智が何といおうと、私の感覚はあまりにも醜い彼らを嫌悪した。そうして伝染の危険を撒きちらしながら彼らが歩きまわっているという事実を恐怖し、憎悪した。
彼らが我々の社会を歩いているということは、癩菌のついた貨幣を我々もまた握るということなのだ。癩者は、彼が無心に生きている瞬間においてさえ、その存在と激しく相剋しているのである。つまり癩者と普通の人間とは決して相いれない存在なのである。そうして、おそらくはこれが癩の現実であり、運命であり、やりきれないところでもある。
癩がそれ自身何らの罪でもないにかかわらず、現実には、かくのごとく憎悪されずにいられないという宿命のおそろしさに目をふさいで、快く泣ける映画が作られたということはいろんな意味で私を懐疑的にしないではおかない。
いったい芸術的に(しかも抒情的に)癩を扱った映画が一本世に出るということはどういう意味を持つものであろう。それは世の中へ何をつけ加えるというのだろう。
私は右のような公式主義的な考え方が好きではない。本当の気持をいえば、芸術家が魂のやむにやまれぬ要求から打ち出したものなら、常識的な意味では、世のためになどならなくてもさしつかえないと思っている。
しかし癩が題材に取られた場合には、このような考え方は許せないと思う。その作品を提出することによって、癩者の幸福に資する点があるとか、あるいは社会問題としての癩に貢献する確乎たる自信がないかぎり、これは芸術家――ことに映画のような娯楽的性格を持つ芸術に携わるもの――の触れてはならない題材ではないだろうか。
もし映画「小島の春」が、癩に対する一部の認識を是正し、その伝染病たることを闡明《せんめい》する意図のもとに作られたのなら、あのような(シナリオによって判断する)まわりくどい表現は不必要だし、またもし癩者の入園を慫慂《しょうよう》するためならば、先決問題たる現在の癩院の収容力不足(それは全国の推定患者数の三分
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