ぐに「レ・ミゼラブル」を想起するが、彼の本国において散文作家としてのユゴーよりも詩人としてのユゴーのほうがはるかに高く評価されているようである。しかし我々はユゴーに詩があることさえろくに知らない。この一例は芸術の範疇によつて国際性に径庭のある事実を端的に物語つているが、同時にまた、価値の高いものでさえあれば国際性を持つという意見が必ずしも正しくないことを証拠立ててもいるのである。
 さらに次のような例もある。すなわち我々は過去において外国の探偵小説を読み、それらの作家の名前までおぼえてしまつた。しかし、それらとは比較にもならないほど高い作家である鴎外の名を知つている外国人が果して何人あるだろう。ここにもまた国際性が決して価値に比例しない実例を見る。
 優れた作品を作りさえすれば、それらは易々と国外に進出するという楽観論は、芸術に国際性のみを認めて民族性のあることを見落したずさんな議論であつてまだ思考が浅いのである。
 いま、日本の政治は何より映画の国際性を利用しようと焦つているのであるが、ここで特に為政者に深く考えてもらいたいことは芸術においては国際性というものはむしろ第二義の問題だと
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