で「じようだんじやないよ。てんで画面と合つても何もいやしないじやないか」と呆然としてしまうことは十の曲目のうち六つくらいまではある。
私はあえて多くを望まないが、せめてかかる場合を十のうち二つくらいにまで減らしてもらえないものだろうかと思う。
画面に対する解釈の相違ということもあるだろう。あるいはまた音楽というものの性質上、選曲がぴつたりと合致することは望み得ないのが当然かもしれない。しかし、どう考えたらこういう曲が持つてこられるのかと不思議に堪えないような現象に遭遇するのはいつたいどういうわけだろうか。解釈がどうのという小むずかしい問題ではない。画面には必ず運動がある。運動には速度がある。早い運動の画面に遅い速度の曲を持つてきて平然としているのでは、もうこれは音楽家としての素質にまで疑問を持たれてもしかたがないではないか。
暗い場面に明るい音楽を持つてきたり、のどかな場面に血わき肉おどるような音楽を持つてこられたんではどうにもしようがないではないか。私は諷刺的に話をしているのではない。私の話はまつたくのリアリズムである。画面に桜が出ているからただ機械的に「桜の幻想曲」か何かを持
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