つて行けというのではとうてい画面との交歓は望み得ない。音楽の標題がどういうものか、それは音楽家自身にはよくわかつているはずである。我々は何も音楽家の力を借りて判じものをやろうとしているのではない。感覚的に画面とぴつたり合致さえすれば桜の場面に紅葉の曲を持つてこようと、あるいはなめくじの曲を持つてこようといささかもかまうところはないのである。
私が何よりも音楽家に望むのはまず画面を感覚的に理解してもらうことである。そしてその第一歩としては、何よりも画面の速度を正確にキャッチすることにつとめてもらいたい。メロディーやハーモニーは二のつぎでよろしい。速度のまちがいのないものさえぴたりとおけば、もうそれだけで選曲は五十点である。画面は全速力で自動車が走つているのに音楽は我不関焉とアンダンテか何かを歌われたんではきのどくに見物の頭は分裂してしまうほかはない。しかもこれはおとぎばなしでなく、実例をあげようと思えばいつでもあげられる「実話」なのである。
次に映画音楽の特殊な要求として、非常な短時間(といつても十秒以下ではむりであろうが)のうちに一つの色なり気分なりを象徴し得る音楽を欲することがあ
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング