合が多いのであるが、これに音楽を持ち込むと多くの場合叙情的になつて作者の色彩を薄らげてしまう。
しかしこれは深く考えてみると必ずしも音楽家の罪ばかりではなく、また実に音楽そのものの罪でもあるのだ。なぜならば、私の考えでは音楽は他の芸術とくらべると本質的に叙情的な分子が多いからである。
私の経験によると、映画のある部分が内容的にシリアスになればなるほど音楽を排斥するということがいえそうに思える。しかしてそれは音楽の質のいかんには毫も関係を持たないことなのである。そしてこのことは映画の芸術がある意味でリアリスティックであり、音楽があくまでも象徴的であるところからもきていると思うがこれらの問題はあまりに大きすぎるから今は預つておいて、ふたたび実際的な問題にたちかえることにする。
我々が或る場面の音楽の吹込みに立会つていて、まず最初にその場面の音楽の練習を耳にしたとき(多くの場合、我々は吹込みの現場で始めてその曲を聞かされるのである。)「おや、これはいつたいどこへ入れる曲なんだろう」という疑を持つことは実にしばしばである。そしてよくきいてみるとその曲を今のこの場面に入れるつもりだというので「じようだんじやないよ。てんで画面と合つても何もいやしないじやないか」と呆然としてしまうことは十の曲目のうち六つくらいまではある。
私はあえて多くを望まないが、せめてかかる場合を十のうち二つくらいにまで減らしてもらえないものだろうかと思う。
画面に対する解釈の相違ということもあるだろう。あるいはまた音楽というものの性質上、選曲がぴつたりと合致することは望み得ないのが当然かもしれない。しかし、どう考えたらこういう曲が持つてこられるのかと不思議に堪えないような現象に遭遇するのはいつたいどういうわけだろうか。解釈がどうのという小むずかしい問題ではない。画面には必ず運動がある。運動には速度がある。早い運動の画面に遅い速度の曲を持つてきて平然としているのでは、もうこれは音楽家としての素質にまで疑問を持たれてもしかたがないではないか。
暗い場面に明るい音楽を持つてきたり、のどかな場面に血わき肉おどるような音楽を持つてこられたんではどうにもしようがないではないか。私は諷刺的に話をしているのではない。私の話はまつたくのリアリズムである。画面に桜が出ているからただ機械的に「桜の幻想曲」か何かを持
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