つて行けというのではとうてい画面との交歓は望み得ない。音楽の標題がどういうものか、それは音楽家自身にはよくわかつているはずである。我々は何も音楽家の力を借りて判じものをやろうとしているのではない。感覚的に画面とぴつたり合致さえすれば桜の場面に紅葉の曲を持つてこようと、あるいはなめくじの曲を持つてこようといささかもかまうところはないのである。
私が何よりも音楽家に望むのはまず画面を感覚的に理解してもらうことである。そしてその第一歩としては、何よりも画面の速度を正確にキャッチすることにつとめてもらいたい。メロディーやハーモニーは二のつぎでよろしい。速度のまちがいのないものさえぴたりとおけば、もうそれだけで選曲は五十点である。画面は全速力で自動車が走つているのに音楽は我不関焉とアンダンテか何かを歌われたんではきのどくに見物の頭は分裂してしまうほかはない。しかもこれはおとぎばなしでなく、実例をあげようと思えばいつでもあげられる「実話」なのである。
次に映画音楽の特殊な要求として、非常な短時間(といつても十秒以下ではむりであろうが)のうちに一つの色なり気分なりを象徴し得る音楽を欲することがある。むろんそれは、ある曲のある楽章のある小節をちぎつてきたものでもいいし、あるいは五線紙に一、二行、だれかが即興的におたまじやくしを並べたのでも何でもいい。ただし、多くの場合、それは短いが短いなりに一区切りついたものでありたく、必然的に次の音符を予想せしめるようなのはこまるが、要するにたいしてむずかしいものではない。
しかし、私の経験によるとこれが自由自在にできる人は現在やつている人たちの中にはいないようである。
「こんな短い間へ入れる音楽はありませんよ」というのがその人たちの答である。
「なければこしらえてください」といいたいのはやまやまであるが、いつてむだなことはいわざるにしかず、
「ではなしで行きましよう」
結局日本の映画監督はますます音痴ということになるのである。
映画音楽家の場合、最も必要な才能は必ずしも作曲の手腕ではない。まず、何より鋭敏な感覚と巧妙なるアレンジメントの才能こそ最も重宝なものであろう。そしてきわめて制限された長さの中へ最も効果的なメロディーをもりこむ機智と融通性がなくてはとうていこの仕事はやつて行けないだろう。
私は不幸にしてまだそういうことのできる
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