が、日本ではなかなかそういうわけには行かないから、せめて音楽のアフレコのときには耳に脱脂綿でも詰めていねむりをしているのが、最も良心的とでもいうのであろう。
へたな楽隊を一日のうちにじようずにすることは神さまだつてできることではない。まして一介の監督風情が、頭から湯気を立ててアフレコ・ルームを走りまわつてみたところで何の足しにもなりはしない。
いくらクライスラーでも一日数時間ずつ、何十年の練習が積みかさならなければあの音は出ない仕組みになつているのだから話は簡単である。一般の観察によると映画は音楽がはいつていよいよ効果的になるものとされているらしいが、我々の経験によると、現在の日本では音楽がくわわつて効果をます場合が四割、効果を減殺される場合が六割くらいに見ておいて大過がない。だから音楽を吹きこむ前に試写してみて十分観賞に堪え得る写真を作つておかないと大変なことになる。
ここは音楽がはいるから、もつと見られるようになるだろうという考え方は制作態度としてもイージイ・ゴーイングだし、実際問題としても必ず誤算が生じる。
さて、こういうおもしろくない結果が何によつて生じてくるかということを考えてみると、それには種々な原因がある。が、何といつてもまず第一は音楽家の理解力の不足、といつてわるければ、理解力に富む音楽家が不足なのか、あるいは不幸にして理解力に富む音楽家がまだ映画に手を出さないかのいずれかであろう。
第二に音楽家の誠意の不足である。
これもそういつてわるければ誠意ある音楽家がまだ映画に手をふれないか、あるいは誠意ある人があまり音楽家にならなかつたかのいずれかであろう。
第三に準備時間の不足である。
第四に演奏技術の貧困である。これもそういつてわるければ技術の貧困ならざる楽団は高価で雇いにくいからといいかえておく。
第五に録音時間の極端な制限。もちろんこれは経済的な理由にのみよるものであるが、多くの場合音楽の吹込みは徹夜のぶつとおしで二昼夜くらいであげてしまう。
さてここで最も問題になるのは何といつても第一の理解力の不足という点であるが、まず一般的なことからふれて行くと、音楽家は多くの場合、我々の期待よりも過度に叙情的なメロディーを持つてくる傾向がある。
自分の場合を例にとつていうと、作者はつとめて叙情的に流れることを抑制しながら仕事をしている場
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