技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。
 実際には種々なものと複雑にからみ合っていて、純粋な抽出は不可能である。

○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。

○百の演技指導も、一つの打ってつけな配役にはかなわない。

○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。
(したがって純粋な立場からいえば、配役は演出者の仕事であるが、実際には必ずしもそうは行かない場合が多い。)

○私の見るところでは、俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい。)の前では多少ともしゃちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。
(このことを方法論的にいうならば、演出者は威厳を整えるひまがあったら愛嬌を作ることに腐心せよということになる。)

○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。私の場合は四十パーセント
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