合(たとえば子役を使う場合など)、もしくは説明が煩雑で、むしろ省略するほうが好ましいような場合には、私は俳優の私に対する信頼にあまえて、理由も何もいわず、ただ機械的に視線の方向と距離とその移行する順序を厳密に指定することがしばしばあった。その結果、彼あるいは彼女たちの演技は正しく各自の考えでそうしているように見えてくるのであった。

○私の経験によると多くの女優は演技よりもなお一層美貌に執着する。
 たとえば彼女たちが昔の既婚婦人に扮する場合、演出者の注意をまたずして、眉を落し歯を染めて出るのは時代劇の常識であるべきはずだが、実際にはこれらの問題で手を焼かせなかった女優は極めて稀である。ドオランで無理やり眉をつぶして出るのはまだいいほうで、なかには平然と眉黒々と澄まして出るのがある。なだめすかして眉を落させると歯が染めてなかったりする。あるいは中には稀にこういうことをいいかげんにすませる演出者があるためにこうなるのではないかとも思う。
 しかし私が言いたいことはほかにある。それは、眉を落しかね[#「かね」に傍点]をつけることによって、美しさが倍加しなかった女優を私はまだ見たことがないと
前へ 次へ
全29ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング