しては多少の考慮をはらってやるべきである。かかる俳優の演技のテストに際しては微妙な計算が必要である。
○テストの回数はしばしば問題となるが、私の考えでは、一般的な法則としては、それは多ければ多いほどよい。
テストが多過ぎるとかえって演技の質が落ちると主張する俳優はみずから自己の演技が偶然に依存している事実を告白しているようなものだ。
このことはその反対の場合の、あらゆる古典芸術の名人芸を思い浮べてみたら容易に納得の行くことである。彼らの芸は練習回数の夥多によって乱され得るほど偶然的ではない。
○演出者が意識して演技の中に偶然を利用しようとする場合は無反省にテストをくり返してはいけない。たとえば非常にアクロバティックな演技や、子役を使う場合などにはある程度以上のテストは概して無効である。
○経験の浅い女優などに激情的な演技を課するような場合は、偶然的分子が結果を支配する率が多いからテストの回数を重ねることは危険である。
なお一般に激情的なカットを撮る場合に考慮すべきことは人間の感情には麻痺性があるという心理的事実である。通例いわゆる甲らを経た俳優ほど感情を動かすことなくして激情を表現し得るものであるが、多くの俳優は演技の必要に応じてある程度まで自分の感情を本当に動かしてかかっているのである。したがって前者の演技は持続的な麻痺の上に立っているがゆえにもはや麻痺の心配はないが後者は麻痺によって感激が失せると演技が著しく生彩を欠いてしまう。
ことに演技中に落涙を要求する場合などは、いかなる俳優といえども麻痺性の支配を受けないものはないのであるからテストは最小限度にとどめ、でき得るならばまったくテストを省略するように工夫すべきである。
○演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのためには文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する誘因になるような言動は絶対に慎しまなければならない。
演技指導とは俳優を侮辱することだと思っているらしい演出者がいるのは驚くべきことだ。
○演出者は俳優がテストに際してどんなに拙い演技を示しても、決してそれによる驚きや失望を色に現わしてはいけない。彼の示した演技と、自分の望む演技との間にたとえ非常な距離があるにしても、いきなりその距離の大きさを俳優に
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