、演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはいけない。
 たとえば録音部が直接俳優にむかってせりふの調子の大小を注文したり、カメラマンが直接俳優にむかってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。それらは必ず一度演出者を通じて行なわれねばならぬ。

○非常に低度の演技、つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも右の原則によらない。
(ただし群衆撮影の場合あまりカメラマン任せにすると、カメラマンの多くは群衆を一人残らず画面内に収めようとしすぎるため、画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方をする傾向があるから注意を要する。)

○衣裳小道具などを俳優が勝手に注文してはいけない。

○俳優がはじめて扮装して現われた場合、演出者は必ずやり直しをさせるつもりで点検するがよい。でないと眼前に現われた俳優の扮装にうっかり釣りこまれてしまうおそれが多分にある。
 演出者のいだいているものはいくら正しくても畢竟イメージにすぎないが、これに反して俳優の扮装はいくらまちがっていてもそれは実在であるから我々はともするとその現実性にだまされて「うむ、このほうがいいかな」と思ってしまうのである。

○仕事の場にのぞんで「さあ何かやってみせてください」という顔で演出者を見まもる俳優がいる。そういう俳優にむかって私は言う。「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ」

○俳優のつごうによるせりふの改変を許してはいけない。一つでもそれを許したら、あとはもう支離滅裂である。しかしこれを完全に遂行するためには、演出者のほうでも仕事の途中でせりふを書直したり、未完成のシナリオで仕事にかかったりすることをやめなければいけない。
(これは秘密だが、もしも私が俳優だったらせりふをなおさずにやれるシナリオはただの一つもないじゃないかと言いたいような気がする。)
 右の括弧の中は俳優に読まれたくないものだ。

○地面に線を引いてあらかじめ俳優の立ちどまる位置を確保したり、移動するカメラと俳優との間隔を一本の棒で固定したり、かようなあまりにも素朴な機械主義とは、もういいかげんに訣別したいものである。
 人間がこんなにも機械の侮辱にあまんじていなければならぬ理由はない。

○テストのとき、厳密には本意気になれない性質の俳優があるようだ。これは理論的にはもちろんいけないことだが、実際問題と
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