大王と妥協して十月シュレージエンを捨て巴(バイエルン)・仏軍に向ったが大王は墺軍の誠意なきを見て一部の兵を率いてメーレンに侵入し、ベーメンに進出して来た巴・仏軍と策応したのである。しかるに墺軍は逆にドナウ河に沿うてバイエルンに侵入し、ために連合軍の形勢不利となり墺軍は大王に対して有力なる部隊を差向ける事となったのである。そこで大王は一七四二年四月ベーメンに退却し、後図を策する考えであった。墺軍はこれを圧して迫り来たり、大王の戦勢頗る危険であったが、大王は五月十七日コツウジッツに於てこれを迎え撃ち、勝利を得たのである。
 全般の形勢は連合側に不利であったが、英国の斡旋で大王は六月十一日墺軍とブレスラウの講和を結び、シュレージエンを獲《え》た。
 2、第二シュレージエン戦争(一七四四―四五年)
 大王が戦後の回復に努力しつつある間、墺英両国は仏・巴軍を圧してライン河畔に進出した。大王はいたずらに待つ時は墺国より攻撃せらるるを察知し、再び仏・巴と結び一七四四年八月一部をもってシュレージエン、主力を以てザクセンよりベーメンに入り、九月十八日プラーグを攻略した。プラーグ要塞は当時ほとんど構築せられていなかったのである。大王は同地に止まって敵を待つ事が当時の用兵術としては最も穏健な策であったが(大王自身の反省)、軍事的に自信力を得た大王は更に南方に進み、墺軍の交通線を脅威して墺軍を屈伏せしめんとしたが、仏軍の無為に乗じて墺将カールはライン方面より転進し来たり、ザクセン軍を合して大王に迫って来た。カールの謀将トラウンの用兵術巧妙を極め、巧みに大王の軍を抑留し、その間奇兵を以て大王の背後を脅威する。大王が会戦を求めんとせば適切なる陣地を占めてこれを回避する。大王は食糧欠乏、患者続出、寒気加わり、遂に大なる危険を冒しつつ、シュレージエンに退却の余儀なきに至った。トラウンは巧妙なる機動に依り一戦をも交えないで大王に甚大なる損害を与え、その全占領地を回復したのである。
 外交状態も大王に利なく一七四四年遂に大王は戦略的守勢に立つの他なきに至った。そこで大王は兵力をシュワイドニッツ南方地区に集結、敵の山地進出に乗ずる決心をとった。敵が慎重な行動に出たならば大王の計画は容易でなかったと思われるが、大王は巧妙なる反面の策に依り敵を誘致し得て、六月四日ホーヘンフリードベルクの会戦となり大王の大勝となった。この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、遂に北方に退却の止むなきに至った。墺軍はこれに追尾し来たり、九月三十日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、永くベーメンに留まる事が出来ず、十月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。
 しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、十二月十五日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。大王はこの日ドレスデン西北方二十キロのマイセンに止まり、カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。
 カールは再戦を辞せぬ決心であったが、ザクセン軍は志気阻喪して十二月二十五日遂にドレスデンの講和成立し、ブレスラウ条約を確認せしめた。
 3、七年戦争(一七五六―六二年)
 第二シュレージエン戦争後七年戦争までの十年間大王は国力の増進と特に前二戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、自ら数個の戦術書を起案した。かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。この十カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。
 イ、一七五六年
 墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、大王は英国と近接した。
 また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、一七五六年開戦に決して八月下旬ザクセンに進入、十月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。
 ロ、一七五七年
 敵国側の団結は予想以上に鞏固《きょうこ》で一七五七年のため約四十万の兵力を使用し得るに対し、大王はその半数をもってこれに対応することとなった。大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、大王十年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。
 五月六日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、五月二十九日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。ところが墺将ダウンが近接し来たり、巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、六月十八日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。しかしながら大王軍は遂に大敗し、止むなくプラーグの攻囲を解き、一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。
 大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。敵は巧みにこれを避け大王をして奔命に疲れしむるとともに墺軍主力はシュレージエンの占領を企図したので、大王も弱り抜いて十月下旬遂にシュレージエンに転進するに決した。その時西方の敵再び前進し来たるの報告に接しただちにこれに向い、十一月五日二万二千の兵力をもって六万の敵をロスバハに迎撃、これに甚大の損害を与えた。
 この一戦はほとんど絶望の涯てに在った普国を再生の思いあらしめた。しかしシュレージエン方面の状況が甚だ切迫して来たのでただちにこれに転進、途中ブレスラウの陥落を耳にしつつ前進、十二月五日有名なロイテンの会戦となった。
 この会戦は三万五千をもって墺軍の六万五千に徹底的打撃を与えた、大王の会戦中の最高作品であり、大王のほとんど全会戦を批難したナポレオンさえ百世の模範なりとして極力賞讃したのである。墺軍はシュレージエンに進入した九万中僅かにその四分の一を掌握し得、大王は約四万の捕虜を得てシュワイドニッツ要塞以外の全シュレージエンを回復、平和への希望を得て冬営についた。
 ハ、一七五八年
 マリア・テレジヤの戦意旺盛にして平和の望みは絶え、露軍は昨年東普に侵入退却したが、この年一月二十二日遂にケーニヒグレッツを占領し、夏にはオーデル河畔に進出を予期せねばならぬ。幸いロスバハ、ロイテンの戦果に依り英の態度積極的となり、仏に対する顧慮は甚だしく減少した。
 しかし大王の戦力も大いに消耗、もはや大規模な攻勢作戦を許さない。またいたずらに守勢に立つは大王の性格これを許さぬ。ここに於て大王はなるべく遠く墺軍を支え、為し得ればこれに一撃を与え、露軍の近迫に際し動作の余地を有するを目的とし、四月中旬シュワイドニッツ攻略後主力をもってメーレンに侵入、オルミュッツ要塞を攻略するに決心した。あたかも一九一六年ファルケンハインのいわゆる「制限目的をもってする攻勢」であるベルダン攻撃に似ている。
 五月二十二日から攻囲を開始したが、敵将ダウンの消耗戦略巧妙を極めて大王を苦しめ、六月三十日四千輛よりなる大王の大縦列を襲撃潰滅せしめた。大王は躊躇する事なく攻城を解き、八月初め主力をもってランデスフートに退却した。
 露軍は八月中旬オーデル河畔に現われスウェーデン軍また南下し来たったので、大王は主力をもって墺軍に対せしめ、自ら一部をもって露軍に向い、八月二十五日ズォルンドルフ附近に於て露軍と変化多き激戦を交え、辛うじてこれを撃退した。大王の損害も大きかったが露軍は墺軍の無為を怒り、遠く退却して大王の負担を減じた。
 墺軍主力はラウジッツ方面よりザクセンに作戦し、西南方より前進して来た帝国軍(神聖ローマ帝国に属する南ドイツ諸小邦の軍隊)と協力してザクセンを狙い、虚に乗じて一部はシュレージエンを攪乱した。大王は寡兵をもって常に積極的にこれに当ったが、ダウンの作戦また頗る巧妙で虚々実々いわゆる機動作戦の妙を発揮した。十月十四日大王はホホキルヒで敵に撃破せられたけれども大体に於て能《よ》く敵を圧し、遂にほとんど完全に敵を我が占領地区より駆逐して冬営に移る事が出来た。この戦は両将の作戦巧妙を極めたが、結局会戦に自信のある大王がよく寡兵をもって大勢を制し得たのである。
 ニ、一七五九年
 辛うじてその占領地を保持し得た大王も、昨年暮以来墺軍の防禦法は大いに進歩し、特に有利なる場合のほか攻撃至難となった旨を述べている。大王の戦力は更に低下して最早攻勢作戦の力無く、止むなく兵力を下シュレージエンに集結、敵の進出を待つ事となった。
 六月末露軍がオーデル河畔に出て来るとダウンは初めて行動を起し、ラウジッツに出て来たが、行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、八月十二日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、一角を奪取したけれども遂に大敗し、さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、大王に英気を回復せしめた。
 九月四日ドレスデンは陥落した。露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが大王の巧妙なる作戦に依り遂に十月下旬遠く東方に退却した。大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、カール十二世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。
 病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、十一月二十一日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。
 ホ、一七六〇年
 大王の形勢ますます不良、クラウゼウィッツの言う如く敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。
 ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は八月初め断固東進、八月十日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。ダウンは大王と前後して東進、ラウドンを合して十万となり、三万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、十四日払暁突如ラウドンと衝突、適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。
 リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。大王は一部をもって露軍を監視、主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、露軍と墺軍の一部は十月四日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。
 露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。
 トルゴウの会戦は一
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