しも時代性があると云えない点があり、同一時代に於てもある地方には決戦戦争が行なわれある地方には持久戦争が行なわれた事があるが、大観すれば両戦争は時代的に交互に現われて来るものと認むべきである。殊に強国相隣接し国土の広さも手頃であり、しかも覇道文明のため戦争の本場である欧州に於てはこの関係が最も良く現われている。決戦戦争では戦争目的達成まで殲滅戦略を徹底するのであるが、各種の事情で殲滅戦略の徹底をなし難く、攻勢の終末点に達する時戦争は持久戦争となる。持久戦争でも為し得る限り殲滅戦略で敵に大衝撃を与えて戦争の決を求めんと努力すべきであるが、かならずしも常に左様にばかりあり得ないで、消耗戦略に依り会戦によって敵を打撃する方法の外、或いは機動ないし小戦に依って敵の後方を攪乱し敵を後退せしめて土地を占領する方法を用いるのである。すなわち会戦を主とするか、機動を主とするかの大略二つの方向を取るのであるが、それは一に持久戦争に於ける武力の価値に依って左右せられる。すなわち持久戦争は統帥、政治の協調に微妙な関係がある如く、戦略に於ても特に会戦に重きを置き時に機動を主とする誠に変化多きものとなる。
[#底本167頁左上に戦争指導に関する表あり]
第四節 欧州近世に放ける両戦争の消長
文明進歩し、ほとんど同一文化の支配下に入った欧州の近世に於ては両戦争の消長と時代の関係が誠に明瞭である。重複をいとわずフランス革命および欧州大戦を中心としてその関係を観察する事とする。
古代は国民皆兵であり、決戦戦争の色彩濃厚であったが、ローマの全盛頃から傭兵に堕落し遂に中世の暗黒時代となった。この時代の戦争は騎士戦であり、ギリシャ、ローマ時代の整然たる戦法影を没し一騎打ちの時代となったのであるが、ルネッサンスとともに火器の使用が騎士の没落を来たし、新しく戦術の発展を見た。しかしいにしえの国民皆兵に還らずして傭兵時代となり、戦争は大体持久戦争の傾向を取りフランス革命に及んだのである。この時代の用兵術はフリードリヒ大王に於て発達の頂点に達し、フリードリヒ大王は正しく持久戦争の名手であった。三十年戦争(一六一八―四八年)には会戦を見る事が多かったが、ルイ十四世初期のオランダ戦争(一六七二―七八年)及びファルツ戦争(一六八九―九七年)に於てはその数甚だ少なかった。スペイン王位継承戦争(一七〇一―一四年)には三回だけ大会戦があったけれども戦争の運命に作用する事軽微であった。またこの頃殲滅戦略を愛用したカール十二世は作戦的には偉功を奏しつつも、遂にピーター大帝の消耗戦略に敗れたのである。
かくてポーランド王位継承戦争(一七三三―三八年)には全く会戦を見ず、しかもその戦争の結果政治的形勢の変化は頗る大なるものがあった。すなわちフリードリヒ大王即位(一七四〇年)当時の用兵は持久戦争中の消耗戦略中、甚だしく機動主義に傾いていたのである。
当時かくの如く持久戦争をなすの止むなき状況にあり、しかも消耗戦略の機動主義すなわち戦争の最も陰性的傾向であったのは政治的関係より生じた不健全なる軍制に在ったのであるが、今少しくこれにつき観察して見よう。
1、傭兵制度
十八世紀の戦争は結局君主が、その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行なった戦争である。しかるに軍隊の建設維持には莫大な経費を要し、兵は賃金のために軍務に服しているが故に逃亡の恐れ甚だしく、しかも横隊戦術は会戦に依る損害極めて多大であった。これらの関係から君主がその高価なる軍隊を愛惜するために会戦を回避せんとするは自然である。
また兵力も小さいため、遠大なる距離への侵入作戦は至難であった。
2、横隊戦術
横隊戦術は火器の使用により発達したのであるが、依然火器の使用には大なる制限を受けるのみならず運動性を欠くことが甚だしかった。しかしながら、専制的支配を必要とする傭兵であったため、十八世紀中には遂にこの横隊戦術から蝉脱《せんだつ》する事が出来なかった。
主将は戦役(戦役とは戦争中の一時期で通常一カ年を指す)開始前又は特別な事情の生じた時、「会戦序列」を決定する。この序列は行軍、陣営、会戦等の行動一般を律するものである。会戦のためには、その序列に従い、横広(大王時代通常四列、プロイセンに於ては現に三列)に並列した歩兵大隊を通常二戦列と、両翼に騎兵を配置し、当時効力未だ充分でなかった砲兵はこれを歩兵に分属して後方に控置したのである。
盲従的規律を要する傭兵には横隊を捨て難く、しかも指揮機関の不充分はかくの如き形式的決定を必要としたのであるが、行軍よりかくの如き隊形に開進し、会戦準備を整うる事は既に容易の業でなく、またかくの如き長大なる密集隊形の行動に適する戦場は必ずしも多くなく、かつ開進後の整いたる運動は平時の演習に於てすら非常な技術を要する。敵火の下ではたちまち混乱に陥ることは明らかであり、また地形の影響を受くる事は極めて大きい。
殊に前進と射撃との関係を律する事は殆んど不可能に近い。すなわち一度停止して射撃を始める時は最早整然と発進せしむる事は云うべくして行ない難い。砲兵の威力は頼むに足らない。
以上の諸件は攻撃の威力を甚だしく小ならしむるものである。すなわち一方軍が会戦の意志なく、地形を利用して陣地を占領する時は攻撃の強行は至難であった。
又たとい敵を撃退せる場合に於ても軽挙追撃して隊伍を紊《みだ》る時は、敗者のなお所有する集結せる兵力のため反撃せらるる危険甚大で、追撃は通常行なわれず、徹底的な戦捷の効果は求め難かった。
3、倉庫給養
三十年戦争には徴発に依る事が多かったが、そのため土地を荒し、人民は逃亡したり抵抗したりするに至って作戦に甚だしい妨害をしたのである。それ以来反動として極端に住民を愛護し、馬糧以外は概して倉庫より給養する事となった。
傭兵の逃亡を防ぐためにも給養は良くしなければならないし、徴発のため兵を分散する事は危険でもあり、殊に三十年戦争頃に比し兵が増加したため、到底貧困な地方の物資のみでは給養が出来なくなった。
そこで作戦を行なう前に適当の位置に倉庫を準備し、軍隊がその倉庫を距たること三、四日行程に至る時は更に新倉庫を設備してその充実を待たねばならぬ。敵の奇襲に対し倉庫の掩護《えんご》は容易ならぬ大問題であった。
4、道路及び要塞
欧州道路の改善は十八世紀の後半期以後急速に行なわれたもので、ナポレオンは相当の良道を利用し得たけれども、フリードリヒ大王当時は幅は広いが(軍隊は広正面にて前進し得た)ほとんど構築せられない道路のみで物資の追送には殊に大なる困難を嘗《な》めた。
水路はこれがため極めて大なる価値があり要塞攻撃材料の輸送等は川に依らねばほとんど不可能に近い有様で、エルベ、オーデル両河は大王の作戦に重大関係がある。
十七世紀ボーバン等の大家が出て築城が発達し、各国が国境附近に設けた要塞は運動性に乏しかった軍の行動を掣肘する事極めて大きかった。
以上の諸事情に依って戦争に於ける武力の価値は低く、持久戦争中でも消耗戦略の機動主義に傾くは自然と云うべきである。
当時の戦争の景況を簡単に説明する事にしよう。
一国の戦争計画は先ず第一に外交に重きを置き、戦役計画の立案も政治上の顧慮を重視して作戦目標および作戦路を決定し、その作戦実施を将軍に命令する。
攻勢作戦を行なわんとせば先ず巧みに倉庫を設備する。倉庫は作戦を迅速にするためなるべく敵地に近く設くるを有利とするも、我が企図を暴露せざるためには適当に撤退せしめねばならない。
準備成り敵地に侵入した軍は敵軍と遭遇せば、特に有利な場合でなければ決戦を行なう事なく、機動に依り敵を圧迫する事に勉める。会戦を行なうためには政府の指示に依るを通例とする。
両軍相対峙するに至れば互に小部隊を支分して小戦に依り敵の背後連絡線を遮断し、また倉庫を奪い、戦わずして敵を退却せしむる事に努力する。敵の要塞に対してはその守備兵を他に牽制し、要すれば正攻法に依りこれを攻略する。作戦路上にある要塞を放置して遠く作戦を為す事はほとんど不可能とせられた。
[#底本173頁に君主の戦争の表あり]
かくして逐次その占領地を拡大して敵の中心に迫り、この間外交その他あらゆる手段に依り敵を屈伏して有利な講和をすることに勉める。
両軍、要地に兵力を分散しているのであるから一点に兵力を集中してそこを突破すれば良いように考えられるが、突破しても爾後の突進力を欠き、却《かえ》って背後を敵に脅かされて後退の余儀なきに至り、ややもすればその後退の際大なる危険に陥るのである。一七四四年第二シュレージエン戦争に於てベーメンに突進したフリードリヒ大王が、敵の巧妙な機動戦略のため一回の会戦をも交える事なく甚大の損害を蒙って本国に退却した如きはその最も良き一例である。(一八○頁参照)
一八一二年ナポレオンのロシヤ遠征はこれと同一原理に基づく失敗であり、この種の戦争では遊撃戦(すなわち小戦)の価値が極めて大きい。
作戦は通常冬期に至れば休止し、軍隊を広地域に宿営せしめて哨兵線をもって警戒し、この期間を利用して補充、教育その他次回戦役の準備をする。時に冬期作戦を行なう事あるもそれは特殊の事情からするもので、冬期作戦に依る損害は通常甚だ大きい。故に一度敵地を占領して要塞、河川、山地等のよき掩護を欠く時は冬期その地方を撤退、安全地帯に冬営するのが通常である。
ナポレオン以後の戦争のみを研究した人にはなかなか想像もつかない点が多いのである。しかしこの事情をよく頭に入れて置かねばフランス革命の軍事的意義、ナポレオンの偉大さが判らないのである。
[#底本175頁左上に図あり]
第五節 フリードリヒ大王の戦争
フリードリヒ大王が一七四〇年五月三十一日、父王の死に依り王位に就いた時は年二十九で、その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口二百五十万に過ぎなかった。当時墺(オーストリア)は千三百万、フランス二千万、英国は九百五十万の人口を有していたのである。
大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口百三十万)の領有を企図したのである。シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。あたかも良し同年十月二十日ドイツ皇帝カール六世が死去したので、これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、大王は前後三回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は戦争研究者のため絶好の手本である。仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。
1、第一シュレージエン戦争(一七四〇―四二年)
大王は十二月十六日国境を越えてシュレージエンに侵入し、二、三要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、一月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。
バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、墺国と交戦状態に在ったため、大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、一七四一年四月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、四月十日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。
[#底本177頁に地図あり]
大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、墺軍は
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