九一八年のドイツ軍攻勢にも比すべきものである。ともに困難の極に達したドイツ軍が運命打開のため試みた最後的努力である。ただし大王は一九一八年と異なりなお存在を持続し得たのである。
ヘ、一七六一年
同盟軍はダウンをして大王の軍をザクセンに抑留し、ラウドンおよび露軍をもってシュレージエンおよびポンメルンに侵入せんと企てた。
大王は一部をザクセンに止めて自らシュレージエンに赴き、ラウドンと露軍の合一を妨げ、機会あらば一撃を加えんとしたが敵の行動また巧妙で、遂に八月中旬五万五千の兵をもって十五万の敵に対し、シュワイドニッツ附近のブンツェルウッツに陣地を占め、全く戦術的守勢となった。
露軍はその後退却したがラウドンは大王の隙に乗じてシュワイドニッツを奪取、墺軍は初めてシュレージエンに冬営する事となり、北方の露軍また遂にコールベルクを陥してポンメルンに冬営するに至った。
ト、一七六二年
ナポレオン曰く「大王の形勢今や極度に不利なり」と。
しかし天はこの稀代の英傑を棄てなかった。一七六二年一月十九日すなわち大王悲境のドン底に於て露女王の死を報じて来た。後嗣ペーテル三世は大の大王崇拝者で五月五日平和は成り、二万の援兵まで約束したのである。スウェーデンとの平和も次いで成立した。
大王はこの有利なる形勢の急転後、熟慮を重ねてその作戦目標をシュレージエンおよびザクセンに限定した。しかも極力会戦を避け、必要以上にマリア女王の敵愾心の刺戟を避けその屈服を企図したのである。
露援軍の来着を待って七月行動を起し、シュワイドニッツ南方にあった墺軍陣地に迫り、これを力攻する事なく、一部をもって敵の側背を攻撃せしめて山中に圧迫、更に十月九日シュワイドニッツを攻略、ザクセンに向い、ドレスデンは依然敵手にあったが他の全ザクセンを回復し、一部の兵を進めて南ドイツの諸小邦を屈服せしめた。
英仏間には十一月三日仮平和条約なり、さすがのマリア・テレジヤも遂に屈服、一七六三年二月十五日フーベルスブルグの講和成立、大王は初めてシュレージエンの領有を確実にしたのである。
クラウゼウィッツは大王の戦争を、
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一七五七年を会戦の戦役、
一七五八年を攻囲の戦役、
一七五九―六〇年を行軍および機動の戦役、
一七六一年を構築陣地の戦役、
一七六二年を威嚇の戦役、
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と称しているが、戦争力の低下に従って止むなく逐次戦略を変換して来た。そして状況に応ずる如くその戦略を運用し、最悪の場合にも毅然として天才を発揮し、全欧州を敵として良く七年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、しかし良く戦争目的を確保し、有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている。
第六節 ナポレオンの戦争
フリードリヒ大王の時代よりナポレオンの時代へ
1、持久戦争より決戦戦争へ
十八世紀末軍事界の趨勢。
七年戦争後のフリードリヒ大王の軍事思想はますます機動主義に傾いて来た。一般軍事界はもちろんである。
一七七一年出版せられたフェッシュの『用兵術の原則および原理』には「将官たる者は決して強制せられて会戦を行なうようなことがあってはならぬ。自ら会戦を行なう決心をした場合はなるべく人命を損せざる事に注意すべし」とあり、一七七六年のチールケ大尉の著書には「学問に依りて道徳が向上せらるる如くまた学問に依り戦術は発達を遂げ、将軍はその識見と確信を増大して会戦はますますその数を減じ、結局戦争が稀となるであろう」と論じている。
仏国の有名な軍事著述家でフリードリヒ大王の殊遇を受け、一七七三年には機動演習の陪観をも許されたGuibertは一七八九年の著述に「大戦争は今後起らぬであろう。もはや会戦を見ることはないであろう」と記している。七年戦争につき有名な著述をした英人ロイドは一七八○年「賢明なる将軍は不確実なる会戦を試みる前に常に地形、陣地、陣営および行軍に関する軍事学をもって自己の処置の基礎とする。この理を解するものは軍事上の企図を幾何学的の厳密をもって着手し、かつ敵を撃破する必要に迫らるる事無く戦争を実行し得るのである」と論じている。
機動主義の法則を発見するを目的として地理学研究盛んとなり鎖鑰《さやく》、基線、作戦線等はこの頃に生れた名称であり、軍事学の書籍がある叢書の中の数学の部門に収めらるるに至った。
ハインリヒ・フォン・ビューローは「作戦の目的は敵軍に在らずしてその倉庫である。何となれば倉庫は心臓で、これを破れば多数人の集合体である軍隊の破滅を来たすからである」と断定し、戦闘についても歩兵は唯射撃するのみ、射撃が万事を決する、精神上の事は最早大問題でないと称し、「現に子供がよく巨人を射殺することが出来る」と述べている。
かくて軍事界は全く形式化し、ある軍事学者は歩兵の歩度を一分間に七十五歩とすべきや七十六歩とすべきやを一大事として研究し「高地が大隊を防御するや。大隊が高地を防御するや」は当時重大なる戦術問題として議論せられたのである。
2、フランス革命に依る軍事上の変化
「最も暗き時は最も暁《あかつき》に近き時なり」と言ったフリードリヒ大王は一七八六年この世を去り、後三年一七八九年フランス革命が勃発したのである。
革命は先ず軍隊の性質を変ぜしめ、これに依って戦術の大変化を来たし遂に戦略の革命となって新しき戦争の時代となった。
3、新軍の建設
革命後間もなく徴兵の意見が出たが専制的であるとて排斥せられた。しかし列強の攻撃を受け戦況不利になったフランスは一七九三年徴兵制度を採用する事となった。しかもこれがためには一度は八十三州中六十余州の反抗を受けたのであった。
徴兵制度に依って多数の兵員を得たのみでなく、自由平等の理想と愛国の血に燃えた青年に依って質に於ても全く旧国家の思い及ばざる軍隊を編制する事が出来た。
新戦術
革命軍隊も最初はもちろん従来の隊形を以て行動しようとしたのであるが、横隊の運動や一斉射撃のため調練不充分で自然に止むなく縦隊となり、これに射撃力を与えるため選抜兵の一部を散兵として前および側方を前進せしむる事とした。即ち散兵と縦隊の併用である。
散兵や縦隊は決して新しいものではない。墺国の軽歩兵(忠誠の念篤いウンガルン兵等である)はフリードリヒ大王を非常に苦しめたのであり、また米国独立戦争には独立自由の精神で奮起した米人が巧みにこれを利用した。
しかし軍事界は戦闘に於ける精神的躱避《たひ》が大きいため単独射撃は一斉射撃に及ばぬものとしていた。
縦隊は運動性に富みかつ衝突力が大きいためこれを利用しようとの考えあり、現に七年戦争でも使用せられた事があり、その後革命まで横隊、縦隊の利害は戦術上の重大問題として盛んに論争せられたが、大体に於て横隊説が優勢であった。一七九一年仏国の操典(一八三一年まで改正せられなかった)は依然横隊戦術の精神が在ったが、縦隊も認めらるる事となった。
要するに散兵戦術は当時の仏国民を代表する革命軍隊に適するのみならず、運動性に富み地形の交感を受くる事少なくかつ兵力を要点に集結使用するに便利で、殲滅戦略に入るため重要な要素をなしたのである。しかし世人が往々誤解するように横隊戦術に比し戦場に於て必ずしも徹底的に優越なものでなかったし(一八一五年ワーテルローでナポレオンはウエリントンの横隊戦術に敗れた)、決して仏国が好んで採用したものでもない。自然の要求が不知不識《しらずしらず》の間にここに至らしめたのである。「散兵は単なる応急策に過ぎなかった。余りに広く散開しかつ衝突を行なう際に指揮官の手許に充分の兵力が無くなる危険があったから、秩序が回復するに従い散兵を制限する事を試み、散兵、横隊、縦隊の三者を必要に応じて或いは同時に、或いは交互に使用した。故に新旧戦術の根本的差異は人の想像するようには甚だしく目立たず、その時代の人、なかんずく仏人は自己が親しく目撃する変化をほとんど意識せず、また諸種の例証に徴して新形式を組織的に完成する事にあまり意を用いざりし事実を窺い得る」とデルブリュック教授は論じている。
革命、革新の実体は多くかくの如きものであろう。具体案の持ち合わせもないくせに「革新」「革新」と観念的論議のみを事とする日本の革新論者は冷静にかかる事を考うべきであろう。
4、給養法の変化
国民軍隊となったことは、地方物資利用に依り給養を簡単ならしむる事になり、軍の行動に非常な自由を得たのである。殊に将校の平民化が将校行李の数を減じ、兵のためにも天幕の携行を廃したので一八〇六年戦争に於て仏・普両軍歩兵行李の比は一対八乃至一対十であった。
5、戦略の大変化
仏国革命に依って生まれた国民的軍隊、縦隊戦術、徴発給養の三素材より、新しき戦略を創造するためには大天才の頭脳が必要であった。これに選ばれたのがナポレオンである。
国民軍隊となった一七九四年以後も消耗戦略の旧態は改める事がなかった。一七九四年仏軍は敵をライン河に圧して両軍ライン河畔で相対峙し、僅か二三十万の軍がアルサス[#「アルサス」はママ]から北海に至る全地域に分散して土地の領有を争うたのであった。
ナポレオンはその天才的直観力に依って事物の真相を洞見し、革命に依って生じた軍事上の三要素を綜合してこれを戦略に活用した。兵力を迅速に決勝点に集結して敵の主力に対し一挙に決戦を強い、のち猛烈果敢にその勝利を追求してたちまち敵を屈服せしむる殲滅戦略により、革新的大成功を収め、全欧州を震駭せしめた。かくして決戦戦争の時代が展開された。
この殲滅戦略は今日の人々には全く当然の事でなんら異とするに足らないのであるが、前述したフリードリヒ大王の戦争の見地からすれば、真に驚嘆すべき革新である事が明らかとなるであろう。ナポレオン当時の人々は中々この真相を衝き難く、ナポレオンを軍神視する事となり、彼が白馬に乗って戦場に現われると敵味方不思議の力に打たれたのである。
ナポレオンの神秘を最初に発見したのは科学的な普国であった。一八〇六年の惨敗によりフリードリヒ大王の直伝たる夢より醒めた普国は、シャルンホルスト、グナイゼナウの力に依り新軍を送り、新戦略を体得し、ナポレオンのロシヤ遠征失敗後はしかるべき強敵となって遂にナポレオンを倒したのである。
フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、一八三一年彼の名著『戦争論』が出版せられた。
6、一七九六―九七年のイタリア作戦
一八〇五年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。二十万の大軍が広大なる正面をもって千キロ近き長距離を迅速に前進し、一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、十八世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。しかしこれは外形上の問題で、新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。その意味で一七九六年のイタリア作戦、特にその初期作戦は最も興味深いものである。
クラウゼウィッツが「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。
ナポレオンの立案せる計画は、当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。ナポレオ
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