校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。もしロシヤが、もう少し頑張って抗戦を持続したなら、日本の勝利は危なかったのではなかろうか。
 日本陸軍はドイツ陸軍に、その最も多くを学んだ。そしてドイツのモルトケ将軍は日本陸軍の師表として仰がれるに至った。日本陸軍は未だにドイツ流の直訳を脱し切っていない。例えば兵営生活の一面に於ても、それが顕著に現われている。服装が洋式になったのは、よいとしても、兵営がなお純洋式となっているのは果して適当であろうか。脱靴だけは日本式であるが、田舎出身の兵隊に、慣れない腰掛を強制し、また窮屈な寝台に押し込んでいる。兵の生活様式を急変することは、かれらの度胆を抜き、不慣れの集団生活と絶対服従の規律の前に屈伏させる一手段であるかも知れないが、しかし国民の兵役に対する自覚が次第に立派なものに向上して来た今日では、その生活様式を国民生活に調和させることが必要である。のみならず更にあらゆる点に、積極的考慮が払われるべきではないだろうか。
 軍事学については、戦術方面は体験的であるため自然に日本式となりつつあるものの、大戦略即ち戦争指導については、いかに見てもモルトケ直訳である。もちろん今日ではルーデンドルフを経てヒットラー流(?)に移ったが、依然としてドイツ流の直訳を脱してはいない。
 日露戦争はモルトケの戦略思想に従い「主作戦を満州に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃攘し、艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し以て極東の制海権を獲得する……」という作戦方針の下に行なわれたのである。武力を以て迅速に敵の屈伏を企図し得るドイツの対仏作戦ならば、かくの如き要領で計画を立てて置けば充分である。元来、作戦計画は第一会戦までしか立たないものである。
 しかしながら日本のロシヤに対する立場はドイツのフランスに対するそれとは全く異なっている。日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく、戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか。これが私の青年時代からの大きな疑問であった。
 日露戦争時代に日本が対露戦争につき真に深刻にその本質を突き止めていたなら、あるいは却ってあのように蹶起する勇気を出し得なかったかも知れぬ。それ故にモルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える。しかし今日、世界列強が日本を嫉視している時代となっては、正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の大方針を確立せねばならぬ。これは私の絶えざる苦悩であった。
 陸大卒業後、半年ばかり教育総監部に勤務した後、漢口の中支那派遣隊司令部付となった。当時、漢口には一個大隊の日本軍が駐屯していたのである。漢口の勤務二個年間、心ひそかに研究したことは右の疑問に対してであった。しかし読書力に乏しい私は、殊に適当と思われる軍事学の書籍が無いため、東亜の現状に即するわが国防を空想し、戦争を決戦的と持続的との二つに分け、日本は当然、後者に遭遇するものとして考察を進めて見た。
 ロシヤ帝国の崩壊は日本の在来の対露中心の研究に大変化をもたらした。それは実に日本陸軍に至大の影響を及ぼし、様々に形を変えて今日まで、すこぶる大きな作用を為している。ロシヤは崩壊したが同時に米国の東亜に対する関心は増大した。日米抗争の重苦しい空気は日に月に甚だしくなり、結局は東亜の問題を解決するためには対米戦争の準備が根底を為すべきなりとの判断の下に、この持続的戦争に対する思索に漢口時代の大部分を費やしたのであった。当時、日本の国防論として最高権威と目された佐藤鉄太郎中将の『帝国国防史論』も一読した。この史論は、明治以後に日本人によって書かれた軍事学の中で最も価値あるものと信ぜられるが、日本の国防と英国の国防を余りに同一視し、両国の間に重大な差異のあることを見遁している点は、遺憾ながら承服できなかった。かくて私は当時の思索研究の結論として、ナポレオンの対英戦争が、われらの最も価値ある研究対象であるとの年来の考えを一層深くしたのであった。明治四十三年頃、韓国守備中に、箕作博士の『西洋史講話』を読んで植え付けられたこの点に関する興味が、不断に私の思索に影響を与えつつあったのである。
 ただ、箕作博士の所論もマハン鵜呑みの点がある。後年、箕作博士が陸軍大学教官となって来られた際、一度この点を抗議して博士から少しく傾聴せられ来訪をすすめられたが、遂に訪ねる機会も無くそのままとなったのは、未だに心残りである。
 大正十二年、ドイツに留学。ある日、安田武雄中将(当時大尉)から、ルーデンドルフ一党とベルリン大学のデルブリュック教授との論争に関する説明をきき、年来の研究に対し光明を与えられしことの大なるを感知して、この方面の図書を少々読んだのであるが、語学力が不充分で、読書力に乏しい私は、あるいは半解に終ったかとも思われるが、ともかくデルブリュック教授の殲滅戦略、消耗戦略の大体を会得し得て盛んにこの言葉を使用し、陸軍大学に於ける私の欧州古戦史の講義には、戦争の二大性質としてこの名称を用いたのであった。
 ドイツに赴く途中、シンガポールに上陸の際、国柱会《こくちゅうかい》の人々から歓迎された席上に於て、私はシンガポールの戦略的重要性を強調し、英国はインドの不安を抑え、豪州防衛のために戦略的側面陣地価値ある同地を、近く要塞化すべきを断じたのであったが、この後、間もなく実現したので、当時列席した人から感慨深い挨拶状を受けたことがあった。
 ドイツ留学の二年間は、主として欧州大戦が殲滅戦略から消耗戦略に変転するところに興味を持って研究したのであるが、語学力の不充分と怠慢性のため充分に勉強したと言えず、誠にお恥ずかしい次第である。欧州大戦につき少しく研究するとともに、デルブリュックとドイツ参謀本部最初の論争戦であったフリードリヒ大王の研究を必要とし、且つかねての宿望であったナポレオンを研究し、大王の消耗戦略からナポレオンの殲滅戦略への変化は欧州大戦の変化とともに軍事上最も興味深い研究なるべしと信じ、両名将の研究に要する若干の図書を買い集めたのであった。
 明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第六十五連隊は、日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた連隊であった。この連隊は幹部を東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。明治四十二年末、少尉任官とともに山形の歩兵第三十二連隊から若松に転任した私は、私の一生中で最も愉快な年月を、大正四年の陸軍大学入校まで、この隊で過ごしたのである。いな、陸軍大学卒業までも、休みの日に第四中隊の下士室を根城として兵とともに過ごした日は、極めて幸福なものであった。
 私自身は陸大に受験する希望がなかったのであるが、余り私を好かぬ上官たちも、連隊創設以来一名も陸大に入学した者がないので、連隊の名誉のためとて、比較的に士官学枚卒業成績の良かった私を無理に受験させたのである。私の希望通り陸大に入校しなかったならば、私は自信ある部隊長として、真に一介の武人たる私の天職に従い、恐らく今日は屍を馬革に包み得ていたであろう。しかるに私は入学試験に合格した。これには友人たちも驚いて「石原は、いつ勉強したか、どうも不思議だ」とて、多分、他人の寝静まった後にでも勉強したものと思っていたらしい。余り大人気ないので私は、それに対し何も言ったことはなかったが、起床時刻には連隊に出ており、消灯ラッパを通常は将校集会所の入浴場で聞いていた私は、宿に帰れば疲れ切って軍服のまま寝込む日の方が多かったのである。あのころは記憶力も多少よかったらしいが、入学試験の通過はむしろ偶然であったろうと思う。しかしこれは連隊や会津の人々には大きな不思議であったらしい。
 山形時代も兵の教育には最大の興味を感じていたのであるが、会津の数年間に於ける猛訓練、殊に銃剣術は今でも思い出の種である。この猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の念であり、心を悩ますものは、この一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信念感激をたたき込むかであった。私どもは幼年学校以来の教育によって、国体に対する信念は断じて動揺することはないと確信し、みずから安心しているものの、兵に、世人に、更に外国人にまで納得させる自信を得るまでは安心できないのである。一時は筧《かけい》博士の「古神道大義」という私にはむずかしい本を熱心に読んだことも記憶にあるが、遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正九年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の「前代未聞の大|闘諍《とうじょう》一|閻浮提《えんぶだい》に起るべし」は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。
 戦闘法が幾何学的正確さを以て今日まで進歩して来たこと、即ち戦闘隊形が点から線に、更に面になったことは陸軍大学在学当時の着想であった。いな恐らくその前からであったらしい。大正三年夏の「偕行社記事別冊」として発表された恐らく曽田中将の執筆と考えられる「兵力節約案」は、面の戦術への世界的先駆思想であると信ずるが、私がこの案を見て至大の興味を感じたことは今日も記憶に明らかである。教育総監部に勤務した頃、当時わが陸軍では散兵戦術から今日の戦闘群の戦法に進むことに極めて消極的であったのであるが、私が自信を以て積極的意見を持っていたのは、この思想の結果であった。
 私の最終戦争に対する考えはかくて、
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1 日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。
2 戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。
3 戦闘隊形は点から線に、更に面に進んだ。次に体となること。
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の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった。大正何年か忘れたが、緒方大将一行が兵器視察のため欧州旅行の途中ベルリンに来られたとき、大使館武官の招宴があり、私ども駐在員も末席に連なったのであるが、補佐官坂西少将(当時大尉)が五分間演説を提案し最初に私を指名したので私は立って、「何のため大砲などをかれこれ見て歩かれるのか。余り遠からず戦争は空軍により決せられ世界は統一するのだから、国家の全力を挙げて最優秀の飛行機を製作し得るよう今日から準備することが第一」というようなことを述べたのであるが、これは緒方大将を少々驚かしたらしく数年後、陸軍大臣官邸で同大将にお目にかかったとき、特に御挨拶があった。大正十四年秋、シベリヤ経由でドイツから帰国の途中、哈爾賓《ハルビン》で国柱会の同志に無理に公開演説に引出された。席上で「大震災により破壊した東京に十億の大金をかけることは愚の至りである。世界統一のための最終戦争が近いのだから、それまでの数十年はバラックの生活をし戦争終結後、世界の人々の献金により世界の首都を再建すべきだ」といったようなことを言って、あきれられたことも覚えている。
 ドイツから帰国後、陸軍大学教官となったが、大正十五年初夏、故筒井中将から、来年の二年学生に欧州古戦史を受け持てとの話があり、一時は躊躇したが再三の筒井中将の激励があり、もともと私の最も興味をもっていた問題であったため、遂に勇を鼓してお受けすることになった。
 かくて同年夏、会津の川上温泉に立て籠もり日本文の参考資料に熱心に目を通した。もちろん泥縄式の甚だしいものであったが、講義の中心をなす最終戦争を結論とする戦争史観は脳裡に大体まとまっていたので、とりあえず何とか片付け、大正十五年暮から十五回にわたる講義を試みたのであった。「近世戦争進化景況一覧表」(一二一頁参照)はそのときに作られたのである。
 昭和二年の同二年学生に対する講義は三十五回であったが、今度は少し余裕があったため、ドイツから持ち帰った資料を勉強し、更にドイツに
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