いた原田軍医少将(当時少佐)、オーストリア駐在武官の山下中将をもわずらわして不足の資料を収集した。昭和元年から二年への冬休みは、安房《あわ》の日蓮聖人の聖蹟で整頓した頭を以て、とにかく概略の講義案を作成した。もちろん、根本理論は前年度のものと変化はないのである。当時、陸軍大学幹事坂部少将から熱心な印刷の要望があったが、充分に検討したものでもないので、これに応ずる勇気も無く、現在も私の手元に保存してある次第である。
昭和三年度のためには、前年の講義録を再修正する前に、私の年来最大の関心事であるナポレオンの対英戦争の大陸封鎖の項に当面し、全力を挙げて資料を整理し、昭和二年から三年への年末年始は、これを携えて伊豆の日蓮聖人の聖蹟に至り、構想を整頓して正月中頃から起草を始めようとしたとき、流感にかかり中止。その後、再び着手しようとすると今度は猛烈な中耳炎に冒されて約半歳の間、陸軍軍医学校に入院し、遂に目的を達せずして終ったのであった。その後もこの研究、特に執筆を始めると不思議にも必ず病気にかかるので「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」などと冗談を言うような有様であった。
昭和二年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然として輝く霊威をうけて帰来。私の最も尊敬する佐伯中佐にお話したところ余り良い顔をされなかったので、こんなことは他言すべきでないと、誰にも語ったことも無く、そのままに秘して置いたのであるが、当時の厳粛な気持は今日もなお私の脳裏に鞏固《きょうこ》に焼き付いている。
昭和三年十月、関東軍参謀に転補。当時の関東軍参謀は今日考えられるように人々の喜ぶ地位ではなかった。旅順で関東庁と関東軍幹部の集会をやる場合、関東庁側は若い課長連が出るのに軍では高級参謀、高級副官が止まりで、私ども作戦主任参謀などは列席の光栄に浴し得なかった。満鉄の理事などにも同席は不可能なことで、奉天の兵営問題で当時の満鉄の地方課長から散々に油をしぼられた経験は、今日もなお記憶に残っている。
関東軍に転任の際も、今後とも欧州古戦史の研究を必ず続ける意気込みで赴任した。特に万難を排しナポレオンの対英戦争を書き上げる決心であった。しかし中耳炎病後の影響は相当にひどく、何をやっても疲れ勝ちで遂に初志を貫きかねた。漢口駐屯時代に徐州で木炭中毒にかかり、それ以来、脈搏に結滞を見るようになり、一時は相当に激しいこともあり、また漢口から帰国後、マラリヤにかかったなどの関係上、爾後の健康は昔日の如くでなく、且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、殊に満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった。
かような関係で族順では遂に予定の計画を果し得なかったが、しかし陸大教官二個年間の講義は未消化であり、特にデルブリュックの影響強きに失し、戦争指導の両方式即ち戦争の性質の両面を「殲滅戦略」「消耗戦略」と命名していたのは、どうも適当でないとの考えを起し、この頃から戦争の性質を「殲滅戦争」「消耗戦争」の名を用いて、戦略に於ける「殲滅戦略」「消耗戦略」との間の区別を明らかにすることにした。
「殲滅戦争」「消耗戦争」の名称を「決戦戦争」「持久戦争」に改めたのは満州事変以後のことである。
昭和四年五月一日、関東軍司令部で各地の特務機関長らを集め、いわゆる情報会議が行なわれた。当時の軍司令官は村岡中将で、河本大佐はその直前転出し、板垣征四郎大佐が着任したばかりであった。奉天の秦少将、吉林の林大八大佐らがいたように覚えている。この会議はすこぶる重大意義を持つに至った。それは張作霖《ちょうさくりん》爆死以後の状況を見ると、どうも満州問題もこのままでは納まりそうもなく今後、何か一度、事が起ったなら結局、全面的軍事行動となる恐れが充分にあるから、これに対する徹底せる研究が必要だとの結論に達したのであった。その結果、昭和四年七月、板垣大佐を総裁官とし、関東軍独立守備隊、駐箚《ちゅうさつ》師団の参謀らを以て、哈爾賓、斉々|哈爾《チチハル》、海拉爾《ハイラル》、満州里《マンチュウリ》方面に参謀演習旅行を行なった。
演習第一日は車中で研究を行ない長春に着いた。車中で研究のため展望車の特別室を借用することについて、満鉄嘱託将校に少なからぬ御迷惑をかけたことなど思い出される。第二日の研究は私の「戦争史大観」であり、その説明のための要旨を心覚えに書いてあったのが「戦争史大観」の第一版である。第三日は吟爾賓に移り研究を続け、夜中に便所に起きたところ北満ホテルの板垣大佐の室に電灯がともっている。入って見ると、板垣大佐は昨日の私の講演の要点の筆記を整理しているのに驚いた。板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためとのみ思っていた私は、この勉強があるのに感激した次第であった。
この頃から満蒙問題はますますむずかしくなり、私も大連で二、三度、私の戦争観を講演し、「今日は必要の場合、日本が正しいと信ずる行動を断行するためには世界の圧迫も断じて恐れる必要がない」旨を強調したのであった。時勢の逼迫《ひっぱく》が私の主張に耳を藉《か》す人も生じさせていたが、事変勃発後、私の「戦争史大観」が謄写刷りにされて若干の人々の手に配られた。こんな事情で満州建国の同志には事変前から知られ、特に事変勃発後は「太平洋決戦」が逐次問題となり、事変前から唱導されていた伊東|六十次郎《むそじろう》君の歴史観と一致する点があって、特に人々の興味をひき爾来、満州建国、東亜連盟運動の世界観に若干の影響を与えつつ十年の歳月を経て、遂に今日の東亜連盟協会の宣言にまで進んで来たのである。
昭和七年夏、私は満州国を去り、暮には国際連盟の総会に派遣されてジュネーブに赴いた。ジュネーブでは別にこれという仕事もなかったので、フリードリヒ大王とナポレオンに関する研究資料を集め、昭和八年の正月はベルリンに赴いて坂西武官室の一室を宿にし、石井(正美)補佐官の協力により資料の収集につとめた。帰国後も石井補佐官並びに宮本(忠孝)軍医少佐には、資料収集について非常にお世話になった。固より大したものでないが、前に述べた人々の並々ならぬ御好意に依って、フランス革命を動機とする持久・決戦両戦争の変転を研究するための、即ち稀代の名将フリードリヒ大王並びにナポレオンに関する軍事研究の資料は、日本では私の手許に最も良く集まっている結果となった。私は先輩、友人の御好意に対し必ず研究を続ける決心であったが、その後の健康の不充分と職務の関係上、遂に無為にして今日に及んでいる。資料もまた未整理のままである。今日は既に記憶力が甚だしく衰え且つドイツ語の読書力がほとんどゼロとなって、一生私の義務を果しかねると考えられ、誠に申訳のない次第である。有志の御研究を待望する。
支那事変勃発当時、作戦部長の重職にあった私は、到底その重責に堪えず十月、関東軍に転任することとなった。文官ならこのときに当然辞職するところであるが軍人にはその自由がない。昭和十三年、大同学院から国防に関する講演を依託されて「戦争史大観」をテキストとすることとなり若干の修正を加えた。
「将来戦争の予想」については、旧稿は日米戦争としてあったのを、「東亜」と西洋文明の代表たる「米国」たるべきことを明らかにしたが、「現在に於ける我が国防」は根本的に書き換えたのである。昭和四年の分は次の如くであった。
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1 欧州大戦に於けるドイツの敗戦を極端ならしめたるは、ドイツ参謀本部が戦争の本質を理解せざりしこと、また有力なる一原因なり。学者中には既に大戦前これに関する意見の一端を発表せるものあり、デルブリュック氏の如きこれなり。
2 日露戦争に於ける日本の戦争計画は「モルトケ」戦略の直訳にて勝利は天運によりしもの多し。
目下われらが考えおる日本の消耗戦争は作戦地域の広大なるために来たるものにして、欧州大戦のそれとは根本を異にし、むしろナポレオンの対英戦争と相似たるものあり。いわゆる国家総動員には重大なる誤断あり。もし百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく、またもし勝利を得たりとするも戦後立つべからざる苦境に陥るべし。
3 露国の崩壊は天与の好機なり。
日本は目下の状態に於ては世界を相手とし東亜の天地に於て持久戦争を行ない、戦争を以て戦争を養う主義により、長年月の戦争により、良く工業の独立を完うし国力を充実して、次いで来るべき殲滅戦争を迎うるを得べし。
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昭和四年頃はソ連は未だ混沌たる状態であり、日本の大陸経営を妨げるものは主として米国であった。昭和六年「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」を起案している。固より簡単至極のものであるが当時、未だ「戦争計画」というような文字は使用されず、作戦計画以外の戦争に関する計画としては、いわゆる「総動員計画」なるものが企画せられつつあったが、内容は戦争計画の真の一部分に過ぎず、しかもその計画は第一次欧州大戦の経験による欧州諸国の方針の鵜呑みの傾向であったから、多少戦争の全体につき思索を続けていた私には記念すべき思い出の作品である。
昭和十三年には東亜の形勢が全く変化し、ソ連は厖大なその東亜兵備を以て北満を圧しており、米国は未だその鋒鋩《ほうぼう》を充分に現わしてはいなかったが、満州事変以来努力しつつあったその軍備は、いつ態度を強化せしむるかも計り難い。即ち日本は十年前の如く露国の崩壊に乗じ、主として米国を相手とし、戦争を以て戦争を養うような戦争を予期できない状態になっていたのである。
そこで持久戦争となるべきを予期して、米・ソを中心とする総合的圧力に対する武力と経済力の建設を国防の目標とする如く書き改めた。
「若し百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく……」というような古い考えは、自由主義の清算とともに一掃されねばならないことは言うまでもない。
昭和十年八月、私は参謀本部課長を拝命した。三宅坂の勤務は私には初めてのことであり、いろいろ予想外の事に驚かされることが多かった。満州事変から僅かに四年、満州事変当初の東亜に於ける日・ソの戦争力は大体平衡がとれていたのに、昭和十一年には既に日本の在満兵力はソ連の数分の一に過ぎず、殊に空軍や戦車では比較にならないことが世界の常識となりつつあった。
日本の対ソ兵備は次の二点については何人も異存のないことである。
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1 ソ連の東亜に使用し得る兵力に対応する兵備。
2 ソ連の東亜兵備と同等の兵力を大陸に位置せしめる。
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私はこの簡単明瞭な見地から在満兵備の大増加を要望した。しかしそのときの考えは余りに消極的であったことが今となれば恥ずかしい極みである。小胆ものだから自然に日本の現状即ち政治的関係に左右されたわけである。しかし世間では石原はド偉い要求を出すとの評判であったらしい。
その頃ちょうど上京中であった星野直樹氏(私は未だ面識が無かった)から、大蔵省の局長達が日本財政の実情につき私に説明したい希望だと伝えられたが、私はその必要はない旨を返答したところ、重ねて日本の国防につき、できるだけのことを承りたいとのことであったので遂に承諾し、山王ホテルの星野氏の室で会見した。先方は星野氏の他に賀屋、石渡、青木の三氏がおられた。賀屋氏が、まず日本財政につき説明された。それは約束と違うと思ったが私も耐えて終るまで待っており、私の国防上の見地を軍機上許す限り私としては赤誠を以て説明した積りである。終ると先方から、「現在の日本の財政では無理である」「無い袖は振られない」というようないろいろの抗議的説明や質問があったが、私は「私ども軍人には明治天皇から『世論に惑わず政治に拘らず只一途に己が本分』を尽すべきお諭《さと》しがある。財政がどうであろうと皆様がお困りであろうと、国防上必要最少限度のことは断々固として要求する」旨お答えして辞去した。
私のこういう態度主張を、世の中には一種の駆引
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