を通過した。これらの軍拡が政治の掣肘を受けず果敢に行なわれたならばマルヌ会戦はドイツの勝利であったろうとドイツ参謀本部の人々が常に口惜しがるところである。
しかしドイツ軍部もこの頃は国防の根本に対する熱情が充分でなく、ややもすれば行き詰まりの人事行政打開に重点を置いて軍拡を企図した形跡を見遁す事が出来ない。平時兵団の増加は固よりよろしいが、応急のため更に大切なのはシュリーフェンの主張の通り全既教育兵の完全動員に先ず重点を置かるべきであったと信ずる。
モルトケ大将の作戦計画はシュリーフェン案を歪曲したものとして甚だしく攻撃せられる。これはたしかに一理がある。若しシュリーフェンが当時まで参謀総長であったならば、ドイツは第一次欧州大戦も決戦戦争を遂行して仏国を属し戦勝を得たかも知れない(仏国撃破後英国を屈し得たか否かは別問題である)。しかしモルトケ案の後退には時代の勢いが作用していた事を見逃してはならない。
一九〇六年すなわちシュリーフェン引退の年、換言すれば決戦戦争へ徹底の頂点に在ったとも見るべき年にドイツ参謀本部は経済参謀本部の設立を提議している。無意識の中に持久戦争への予感が兆し
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