頗る堅固でナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ四回も敵の解囲企図を粉砕、一七九七年二月二日までにマントアを降伏せしめた。
 一九一六年ファンケルハインが、いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。一九一六年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。
 墺軍は四回の解囲とマントアの降伏で少なくとも十万の兵力を失った(仏軍の損失は二万五千)。マントア攻囲前の墺軍の損失は二万に達するから、一年足らずの間に墺軍はナポレオンのために十二万を失ったのである。これは当時の墺国としては大問題で、これがため主戦場から兵を転用し、最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。
 墺国の国力は消耗し、ナポレオンは一七九七年三月前進を起し、四月十八日
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