フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、一八三一年彼の名著『戦争論』が出版せられた。
6、一七九六―九七年のイタリア作戦
一八〇五年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。二十万の大軍が広大なる正面をもって千キロ近き長距離を迅速に前進し、一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、十八世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。しかしこれは外形上の問題で、新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。その意味で一七九六年のイタリア作戦、特にその初期作戦は最も興味深いものである。
クラウゼウィッツが「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。
ナポレオンの立案せる計画は、当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。ナポレオ
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