立を完成したのであった。それでもこれが成文化されたのは普仏戦争後十年余を経た一八八三年五月二十四日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。
その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、統帥権の独立は確固不抜のものとなった。しかもその根底をなすものは、当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。第一次欧州大戦勃発当時の如きは外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、また当時カイゼルは作戦計画を無視し(一九一三年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるがその年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。
持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、ついに両者の協調を見る事が出来な
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