展するであろう。本来大革新は境遇の必要に迫られて自然に行なわれる。軍事革命が当時の軍人の自覚なく行なわれたと同一である。そこには自然に大犠牲が払われた。しかるにソ連革命は全く古来の歴史と異なってマルクス以来約百年の研究立案の計画により断行せられた。全人類今日なおこれに魅力を感じている。殊に戦乱の中心から離れていた日本にはそれが甚だしい。自称日本主義者すら心の中にマルクス流のこの理論計画先行の方式にほとんど絶対的の魅力を感じているらしい。
 ヒットラーのナチス革命は右両者の中庸である。その天才的直感力に依りて大体の大方針を確立し、その目的達成のために現実の逼迫を巧みに利用して勇猛果敢に建設事業に邁進する。方法は自然にその中に発見せられ、勇敢に訂正、改善して行く。その後を学者連中が理論を立てて行くのである。
 何ら組織的準備のない日本の昭和維新は断じてマルクス流に依るべきでない。否やりたくとも計画がない。否でも応でもヒットラー流の実行先行の方式に依らなければならない。それには万人を納得せしむる建設の目標が最も大切である。今日、日米戦争の危機が国民に防空の絶対必要を痛感せしめた。
 右のような一年前に空想に過ぎなかった大計画も、今日は国民に尤《もっと》もと思わしむるに足る昭和維新原動力の有力な一つとなった。

   第七章 現在に於ける我が国防

     第一節 現時の国策
 速やかに東亜諸国家大同の実を挙げ、その力を綜合的に運用して世界最終戦争に対する準備を整うるのが現在の国策であらねばならぬ。明治維新の廃藩置県に当るべき政治目標は「東亜の大同」である。
「東亜大同」はなるべく広い範囲が、なるべく強く協同し、成し得れば一体化せらるる事が最も希望せらるるのであるが、それはそう簡単には参らない。範囲は大アジアと書いても一つの空想、希望に過ぎない。我が(我が国および友邦)実力が欧米覇道主義の暴力を制圧し得る範囲に求めねばならぬ。東亜連盟の現実性はそこにある。爾後東亜諸民族により時代精神が充分理解せられ、かつ我が実力の増加に依り範囲は拡大せらるるのである。協同の方式も最初は極めて緩やかなものから逐次強化せられる。即ち国家主義全盛時代にも言われた善隣とか友邦とかから東亜連盟となり、次いで東亜連邦となり、遂には全く一体化して東亜大国家とまで進展する事が予想せられる。
 近頃、東亜
前へ 次へ
全160ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石原 莞爾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング