連盟は超国家的思想である。各国家の上に統制機関を設け、その権力をもって連盟各国家を統制指揮するは怪しからぬ等との議論もあるようである。かくの如きは全く時代の大勢を知らない旧式の思想である。一国だけで世界の大勢に伍して進み得る時代は過ぎ去った。如何にして多くの国家、多くの民族を統制してその実力を発揮するかが問題である。それゆえ統制はなるべく強化せられねばならぬ。
日満両国間はその歴史的関係によって相当強度の統制が行なわれている。見方によっては両国は連盟の域を脱して、既に連邦的存在、ある点では大国家的存在とも言える。しかし日華両国は現に東亜未曽有の大戦争を交えている。幸い近く平和が成立したところで急速に心からの協同は至難である。無理は禁物である。理解の進むに従って統制を強めて行かねばならない。最初は善隣友好の範囲を遠く出づる事は適当であるまい。覇道主義者は力をもって先ず条約的に権益ないし両国の権利義務を決定しようとするに反し、我らの王道主義者は先ず心からの理解を第一とせねばならない。法的問題は理解の後に続行すべきである。そこで「東亜連盟」論では、今日はほとんど統制機関を設けようとしていないのである。
しかしそれは決して理想的状態でない。理解の進むに従い適切に敏活なる協同に要する統制機関を設置すべきである。
「最終戦論」には「天皇が東亜諸民族から盟主と仰がるる日、即ち東亜連盟が真に完成した日であります」と述べている。その頃になれば連盟の統制機関も相当に準備せられているであろう。元来東亜連盟の完成した日は、即ち連邦となる日と言うべきである。あるいは物判りの良い東亜諸民族が、真に王道に依って結ばれ、王道の道統的血統的護持者であらせらるる天皇に対し奉る信仰に到達したならば、連邦等は飛越えて大国家に一挙飛躍するのではないだろうか。そんな風になれば今日までの科学文明の立ち遅れ等は容易に償い得るであろう。
満州建国間もなく、民族協和徹底のためには東亜新秩序成立の必要が痛感せられ、東亜連邦、東亜連盟が唱道せられたが、日満間は兎に角、日華間には連邦への飛躍は到底期待し難いので東亜連盟論が自然に採用せられ、昭和八年三月九日協和会の声明となった。私は昭和七年八月満州国を去りこの協和会の声明は知らないでいたが、昭和八年六月某参謀本部部員から「石原は海軍論者なりという上官多し、意見を書いて
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