が戦乱に苦しんでいる民衆を慰めているというわけで、柴大人の仁政を謳ったものであると解釈されている。この詩の中には“安民処処巧安排、告示輝煌総姓柴”と云って、柴長官の告示によって人民が安心した事も詠《よ》まれている。“拳匪紀略”には、
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 『日本軍が北城を占領したので、市民は初めて外国兵が北京に入城した事を知ったのは二十三日である。それに便乗して土匪が数百家を荒し尽したが北城は何の事もなかった。ここは日本兵が占領していたからで、北城の人民達は皆日本兵の庇護を受けた』
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とあり、また“驢背集”という詩集には、
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 『日本軍の入城に依って宮城が守られ、逃げる隙なく宮中に残った数千人のものは日本軍に依って食を与えられた。宮中には光緒帝も西太后も西巡していて恵妃(同治帝の妃)のみが国璽を守っていたが、柴大人に使を派して謝意を述べ、大人の指示によって宮中の善後措置を講じた』
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という意味の談がある。
 誠に当時の日本軍隊の恩威並び行なわれた事蹟は、四十年後の今なお古老の口から聴く事が出来、残る文書に読む事が出来る。英、仏の乱暴の跡といみじくも正邪のよい対照をなして居るではないか」……
 以上は東亜新報掲載記事である。
 明治維新以後薩長が維新の功に驕っていわゆる藩閥横暴となった事が政党政治招来の大原因となり、政党ひとたび力を得るやたちまちその横暴となって間もなく国民の信を失った。今日軍は政治の推進力と称せられている。自粛しなければ国民の怨府となるであろう。日本歴史を見れば日本民族は必ずしも常に道義的でなかった事が明らかである。国体が不明徽となった時代の日本人は西洋人にも優る覇道の実行者ともなった。戦国時代の外交は今日のソ連外交にも劣らざる権謀、謀略の歴史であるとも言える。しかし我が国体の命ずる道は道義治国であり、八紘一宇に依る御理想は道義による世界統一である。
 アメリカの米州統制もドイツの欧州連盟もソ連の統一も総ては力中心の覇道主義である。悲しい哉、我が日本に於ても東亜の大同につき力の信者、即ち覇道主義が目下圧倒的である。東亜連盟論に対する反対はその現われである。しかし東亜連盟論の急速なる進展は国民が急速に皇道に目を醒しつつある証左である。
 力をもってする方法は端的であり、即効的であ
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