国の軍隊が各警備の縄張りをきめたこの時ほど西欧の軍隊の野獣的なる行為に比べ皇軍の仁愛あふるる軍規と施設の真価が発揮せられた事はあるまい。
 この時の日本軍敬慕の北京人の感情は、その後の日露戦争に於て清国をして親日一色ならしめた有力な原動力たり得たのである。……」
(二)、「ここは鼓楼東大街の北である。そして日本軍の善政ゆえに更生した街である。
 橋川時雄氏の調査によると、当時の柴大人《ツァイターレン》の仁政として今も古老の感謝しているところは、大人が警務長官となるや各米倉を開いてその蓄米を廉売し、いわゆる“糧荒”の虞《おそれ》なからしめた事であるそうである。その他に現存している古老が口伝している柴大将についての挿話には次のような話がある。
   【古老の話 その一】
 その頃柴五郎というお方は日本人ではない。満州旗籍の出身だが日本に帰化したのだ。つまり柴大人がこのような仁政を施すのは故郷へ帰ってきて故郷を愛するためだという噂が専らでした。この話は当時その恩に感じた住民達が半分想像まじりで話した噂だろうが、本当の事として宣伝されたわけである。
   【古老の話 その二】
 柴大人が職を去って日本へ帰る日はいやはや大変な事でした。柴公館には、その日朝暗いうちから人がわんさと押しかけて皆餞別の贈り物をしました。その多くは貧民や苦力どもで、皆手に手に乾鶏等を贈ってその行を惜しんだのです。あの時の有様は今でもありありとこの眼に浮かんで来ます。
   【古老の話 その三】
 柴大人の威勢というものはその頃は大したもので、流行歌にまで歌われたものです。つい二十年位までは、この北城一帯では子供らがあんまり悪戯をすると母親達は“柴大人来了《ツァイターレンライラ》”(そんなおいたをすると柴大人が来ますよ)と言ってなだめていた程です。
 この三つの口伝は橋川氏の集めたものであるが、またもって日本軍人柴大人の威徳を偲ぷに充分なるものがあるではないか」
(三)、「宝鈔胡同の柴大人の民心把握の偉大な事蹟をたずねた方がこの際特に意味深いであろう。
 満州人敦厚の“都門紀変三十首絶句”というのは多分拳匪の乱を謳ったものらしいが、その中の第七首“粛府”にこういうのがあるそうだ。
  桐葉分封二百余、蒼々陰護九松居、
  無端燬倣渾間事、同病応憐道士徐。
 この詩にいう道士徐というのは東海に行った徐福
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