対する猜疑《さいぎ》、彼らと事を共にするを好まぬ傾向が増え、かつ燃えた。これらの感情はこれを根絶する事が困難である」と記している。
 日露戦争では既に兵士のあるものは非道義的に傾いた。今次事変は如何であろうか。悪いのは一般日本人と兵士だけに止まるであろうか。北支の老人は「北清事変当時の日本軍と今日の日本軍は余りに変った」と嘆いているそうである。若し我が軍が少なくとも北清事変当時だけの道義を守っていたならば、今日既に蒋介石は我が戦力に屈伏していたではないだろうか。蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義もここにありと信ずる。
 北清事変当時の皇軍が如何に道義を守ったかに関して北京の東亜新報の二月六、七、八日の両三日の紙上に「柴大人の善政、北城に残る語り草」と題し、今なお床しき物語が掲載されている。それを参考までに大略申述べるとこんな事である。
(一)、「千仏寺胡同、この北京の北城の辺こそ、我ら日本人が誇りとしてよい地区なのである。
 光緒二十六年、つまり明治三十三年の七月二十一日は各国連合軍が北京入城の日であった。日本軍は朝陽門より守備兵の抵抗を排除して先ず入城、順天府署に警務所を設け、当時公使館附武官であった柴五郎大佐が警務長官となった。
 柴大佐は後の柴大将であるが、大将の恩威並び行なう善政は全く北京人をして感涙にむせばせたものであった。
 柴長官は先ず安民公署という分署を東西北八胡同と西四牌楼北報子胡同の二個所に設け、布告を発して曰く、
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 『軍人の住民の宅に入りて捜査するを許さず、若し違反する者あらば住民はその面貌 等を記して告発す可し』
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 と。そして清刑部郎中・端華如等をしてその事務を処理させた。
 当時の北京は各国軍がそれぞれ駐屯区域を定めていたのだが、日本軍駐屯の北城地域が最も平和で住民が安居し、ロシヤ、フランス、イギリス等の駐屯区域では兵隊が乱暴するので縊死するもの、井戸に投じ、焼死するものが続出し、そうした区域からの避難民は争って日本軍駐屯の北城区域へ避難して来た。こうした避難民のため、その当時寂びれていた鼓楼大街の如きは忽ち繁華の街となった程である。
 善政というものは比較されて見た時にはっきりとその真価が分る。北清事変で各
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