更に奉公の精神に満ち、真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、義務[#「義務」に白丸傍点]と言う消極的な考えから義勇と言う更に積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。

     第二節 国軍の編制
 フリードリヒ大王時代は兵力が相当多くても実際作戦に従事するものは案外少なくなり、その作戦は「会戦序列」に依り編成された。それが主将の下に統一して運動し戦闘するのであたかも今日の師団のような有様であった。
[#底本261頁に地図あり]
 ナポレオン時代は既に軍隊の単位は師団に編制せられていた。次いで軍団が生まれ、それを軍に編制した。
 ナポレオン最大の兵力(約四十五万)を動かした一八一二年ロシヤ遠征の際の作戦は、なるべく国境近く決戦を強行して不毛の地に侵入する不利を避くる事に根本着眼が置かれた。これは一八〇六―七年のポーランドおよび東普作戦の苦い経験に基づくものであり、当時として及ぶ限りの周到なる準備が為された。
 一部をワルソー方向に進めてロシヤの垂涎《すいぜん》の地である同地方に露軍を牽制し、東普に集めた主力軍をもってこの敵の側背を衝き、一挙に敵全軍を覆滅して和平を強制する方針であった。主力軍は二個の集団に開進した。ナポレオンは最左翼の大集団を直接掌握し、同時に全軍の指揮官であった。
[#底本262頁に地図あり]
 今日の常識よりせばナポレオンは三軍に編制して自らこれを統一指揮するのが当然である。当時の通信連絡方法ではその三軍の統一運用は至難であったろう。けれどもナポレオンといえども当時の慣習からそう一挙に蝉脱出来なかった事も考えられる。何れにせよ事実上三軍にわけながら、その統一運用に不充分であった事がナポレオンが国境地方に於て若干の好機を失った一因となっており、統一運用のためには国軍の編制が合理的でなかったという事は言えるわけである。
 モルトケ時代は既に国軍は数軍に編制せられ、大本営の統一指揮下にあった。シュリーフェンに依り国軍の大増加と殲滅戦略の大徹底を来たしたのであるが、依然国軍の編制はモルトケ時代を墨守し、欧州大戦勃発初期、国境会戦等であたかも一八一二年ナポレオンの犯したと同じ不利を嘗めたのは興味深い事である。
 独第五軍は旋回軸となりベルダンに向い、第四軍はこれに連繋して仏第四軍を衝き、独主力
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