進歩して来たが、現実の問題としてそう正確には行っていない。
 横隊戦術の実際の指揮は恐らく中隊長に重点があったのであろう。横隊では大隊を大隊長の号令で一斉に進退せしむる事はほとんど不可能とも言うべきである。しかし当時の単位は依然として大隊であり、傭兵の性格上極力大隊長の号令下にある動作を要求したのである。
 散兵戦の射撃はなかなか喧噪なもので、その指揮すなわち前進や射撃の号令は中隊では先ず不可能と言って良い。特に散兵の間隔が増大し部隊の戦闘正面が拡大するにつれてその傾向はますます甚だしくなる。だから散兵戦術の指揮単位は小隊と云うのは正しい。しかしナポレオン時代は散兵よりも戦闘の決は縦隊突撃にあったのだから、実際には未だ指揮単位は大隊であった。横隊戦術よりも正確に大隊の指揮号令が可能である。散兵の価値進むに従い戦闘の重点が散兵に移り、密集部隊も戦闘に加入するものは大隊の密集でなく中隊位となった。モルトケの欄(一二一頁付表第二)に、散兵の下に「中隊縦隊」と記し、指揮単位を「中隊」としたのはこの辺の事情を現わしたのである。
 日露戦争当時は既に散兵戦術の最後的段階に入りつつあり、小隊を指揮の単位とした。しかるに戦後の操典には射撃、運動の指揮を中隊長に回収したのであった。その理由は、日露戦争の経験に依れば、一年志願兵の将校では召集直後到底小隊の射撃等を正しく指揮する事困難であると云うのであった。若し真に日本軍が散兵戦闘を小隊長に委せかねるというならば、日本民族はもう散兵戦術の時代には落伍者であると言う事を示すものといわねばならぬ。もちろんそんな事はないのであるから、この改革は日本人の心配性をあらわす一例と見る事が出来る。
 更に正確にいえば、ドイツ模倣の一年志願兵制度が日本社会の実情に合しない結果であったのである。欧州大戦前のドイツで中学校《ギムナジュウム》に入学するものは右翼または有産者即ち支配階級の子供であり、小学校卒業者は中学校に転校の制度はなかったのである。即ち中学校以上の卒業者は自他ともに特権階級としていたので、悪く言えば高慢、良く言えば剛健、自ら指導者たるべき鍛錬に努力するとともに平民出身の一般兵と同列に取扱わるる事を欲しないのである。そこに特権制度として一年志願兵制度が発達し、しかもその価値を発揮したのである。しかるに明治維新以後の日本社会は真に四民平等である
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