のため米・ソの合力に対抗し得る実力を養成することを絶対条件と信じ、国家が真に自覚すればその達成は必ず可能なるを確信するに至ったのである。
経済力が極めて貧弱で、重要産業はほとんど英米依存の現状に在った日本は、至急これを脱却して自給自足経済の基礎を確立することが第一の急務なるを痛感し、外交・内政の総てをこの目的達成に集中すべく、それが国防の根本であることを堅く信じて来たのであるが、満州国は十二年から計画経済の第一歩を踏み出したものの、日本は遂にこれに着手するに至らないで支那事変を迎えたのである。国家は戦争・建設同時強行との、えらい意気込みであったが、日本としてこの二大事業の同時遂行は残念ながら至難なことが、戦争の経験によって明らかとなった。しかし、いかなることが起るとも米・ソ両国の実力に対抗し得る力なき限り、国防の安定せざることを明らかにしたのが昭和十三年の訂正である。
昭和十四年、留守第十六師団長中岡中将の命により、京都衛戌講話に「戦争史大観」を試みたが、その後、人々の希望により、昭和十五年一月印刷するに当り、既に第二次欧州大戦が勃発したため、若干の小修正を加えたのが現在のものである。
[#底本142頁右上に、持久戦争と決戦戦争の移り変わりを示した図あり]
フランス革命から第一次欧州戦争の間が決戦戦争の時代であり、この期間は百二十五年である。その前の持久戦争時代は大体三、四百年と見ることができる。もちろんこの時代の区分や、その年数については、簡単に断定することに無理はあるが、大勢は推断することができると信ずる。第一次欧州大戦から次の大変換即ち最終戦争までの持久戦争期間は、この勢いで見れば、すこぶる短いように考えられる。同時に私の信仰から言えば、その決勝戦に信仰の統一が行なわれねばならぬ。僅か数十年の短い年月で一天四海皆帰妙法は可能であろうか。最終戦争までの年数予想は恐ろしくて発表の勇気なく、ただ案外近しとのみ称していた。
昭和十三年十二月、舞鶴要塞司令官に転任。舞鶴の冬は毎日雪か雨で晴天はほとんどない。しかし旅館清和楼の一室に久し振りに余り来訪者もなく、のどかに読書や空想に時間を過ごし得たのは誠に近頃にない幸福の日であった。
この静かな時間を利用して東洋史の大筋を一度復習して見たい気になり、中学校の教科書程度のものを読んでいる中に突如、一大電撃を食らった。
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