としていた。機械鍛冶の響きはもう罷んで、向うの酒屋でも店を閉めてしまった。この町のずッと奥の方に、近ごろ出来た石鹸《せっけん》工場の職工らしい酔漢《よっぱらい》が、呂律《ろれつ》の怪しい咽喉《のど》で、唄《うた》を謳《うた》って通った。空車を挽《ひ》いて帰る懈《だる》い音などもした。
 K―は、茶の室《ま》でお銀たちを相手に、ちびちびいつまでも酒を飲み続けていた。しんみりしたような話し声が時々聞えるかと思うと、お銀の笑い声などが漏《も》れて来た。甥は真中の六畳の隅の方で、もう深い眠りに沈んでいた。
 夜になると、はっきりして来る笹村の頭は、痛いほど興奮していた。筆を執るには、目がちかちかし過ぎるほど、神経が冴《さ》えていた。
「酒というものは陽気でようござんすね。」客商売の家にいたりしたことのあるお銀が、先刻《さっき》酒好きなK―に媚《こ》びるように言ったことなどが想い出された。
 そういうお銀は、笹村の客が帰ったあとで、麦酒《ビール》などの残りをコップに注《つ》いで時々飲んでいた。酒が顔へ出て来ると、締りのない膝を少し崩しかけて、猥《みだ》らなような充血した目をして人を見た。齲歯《む
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