ムなどを突ッつきながら、しばらく話してから外へ出た。
 往来の雑沓《ざっとう》は大分|鎮《しず》まっていた。O氏に別れた笹村は暗い横町からぬけて、人気のない宿へ帰って来た。
「僕の宿へ来てみないかね。」
 別れる時笹村はO氏を誘って見た。
「いや休《よ》そう。君の下宿もつまらんでね。」
 下宿では衆《みんな》が寝静まっていた。長い廊下を伝うて、自分の部屋へ入ると、戸を閉めきった室内には、まだ晩方の余熱《ほとぼり》が籠っていた。笹村は高い方の小窓をすかして、しばらく風を入れていたが、するうち疲れた体を蒲団のうえに横たえた。
 二、三日笹村は、朝の涼しいうちから仕事に取りかかった。前の離房《はなれ》の二室へは、急に下町の商家の内儀《おかみ》らしい、四十前後の女が、息をぬきに来たという風で入って来た。どこか体に悪いところのあるようなその女は、毎日枕を出して臥《ね》そべっていた。時々三十ばかりの女が小さい娘をつれて訪ねて来ると、水菓子などを食べて、気楽そうに半日|喋舌《しゃべ》って遊んで行った。宿の娘から借りた琴が、主人公の方の懈《だる》い唄の声につれて掻き鳴らされた。
「騒々しくてしかたがない。」
 笹村は給仕している女中に顔を顰《しか》めたが、部屋を移ろうともしなかった。

     三十一

 二つに岐《わか》れた経済が持ちきれなくなって、笹村がほどなく下宿を引き払ったのは、谷中の友人の尽力でお銀の体のきまりがようやく着いてからであった。そのころには、甥もその姉婿につれられて、田舎へ帰っていた。
 甥はますます悪い方へ傾いていた。夜おそく浅草の方から車夫を引っ張って帰ったり、多勢の仲間をつれ込んで来て、叔父を威嚇《いかく》するようなこともしかねなかった。同勢は空屋《あきや》へ寄って来てほしいままに酒を呷《あお》ったり、四辺《あたり》憚《はばか》らぬ高声で流行唄を謳《うた》ったりした。
「どうか漬物を少し。」などと、腕まくりした年嵩《としかさ》の青年が、裏口から酔っぱらって来てお銀に強請《ねだ》った。
「新を呼んでおいで。」と、笹村は顔色を変えていた。
「うっちゃっておおきなさいよ。おっかなくてとても寄りつけませんから。」
 お銀は裏から覗いて来ては、その様子を笹村に話した。
 同勢は近所の酒屋や、天麩羅屋《てんぷらや》などを脅《おど》かした。
「叔父さんが何か言や、殺してしまうなんて言ってますよ。」
 笹村はお銀からこんなことも一、二度聞いた。
「おい、お前は己を殺すとか言ってるそうだが……。」
 笹村は日暮れ方に外から帰って来た甥の顔を見ると、いきなり詰《なじ》った。
 酒気を帯びていた甥は坐りもしなかった。そして、「殺してやろう。」と嶮しい目をしながら、台所の方へ刃物を取りに行った。
「あなたあなたお逃げなさいよ。」
 お銀がけたたましく叫ぶまもなく、出刃を持った甥が、後からお銀に支えられながら入って来た。
 台所で水甕《みずがめ》のひっくらかえる音などを聞きつけて、隣に借家していた大学生が裏口へ飛び出して来てくれた。
 外へ逃げ出した笹村が、家へ入って来たころには、甥の姿はもうそこには見えなかった。
「あんな優しい顔していて随分乱暴なことをするじゃありませんか」
 お銀は一晩気味悪がっていたが、笹村もあまりいい気持がしていなかった。そして甥が行李の底に収《しま》っていた白鞘《しらさや》の短刀を捜したが、それは見つからなくて、代りに笹村が大切に保存していたある人の手蹟を留《とど》めた唐扇《とうせん》などが出て来た。
 笹村の従弟《いとこ》にあたる甥の義兄が、賺《すか》して連れて行ってからも、笹村の頭には始終一種の痛みが残っていた。変人の笹村は、従弟などによく思われていなかった。
「あの方は、新ちゃんのことをそんなに悪くも思っていないですよ。」
 お銀も二人を送り出してから、それを気にしていた。
 友人がお銀のことについて、笹村の意嚮《いこう》を確かめに来たのは、そんな騒ぎがあってから間もなくであった。それまでに二人はたびたび顔を合わして、そのことを話し合っていた。笹村は相変らずM先生の仕事を急いでいたが、別れる別れぬの利害が、二人のあいだにしばらく評議された。
「僕の母なぞは別れるのは不賛成なんだが、とにかく子供のあまり大きくならんうちに片づけてしまいたまえ、手切れさえやればむろん承知するよ。それも君の言う半分で、大抵話がつこうと思う。」
 世故《せこ》に長《た》けた友人は、そう言って下宿を出て行った。
「君のこともちっとは悪く言うかも知れんから、それは承知していてくれたまえ。」友人は出るとき笹村に念を押した。
 友人が帰って来るまでには、大分手間が取れた。笹村は寝転んだり起きたりして、心に落着きがなかった。そしてそれがいず
前へ 次へ
全62ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング