十五、六にもなったかと思われるお銀の父親は無口な行儀のよい人であった。噂に聞いていた、酒と女とで身代を潰《つぶ》した男とは受け取れぬほどであった。
「父もしばらくのまにめっきり弱ってしまいましたよ。前に東京にいたころはあんなじゃなかったんですがね。」と、お銀はその晩酒に酔った父親が、寝所へ入ってから笹村に話しかけた。
「年のせいもあるでしょうけれど、本家が潰れかかっているので、すっかり力を落したんでしょうよ。父は、自分はどんなめちゃをやっても、本家があるからという気が、始終していたんですからね。」
 そういうお銀自身も、それには少からず失望しているらしかった。
 笹村はそんなことを考えてみようとも思っていなかった。お銀の生立ち、前生涯《ぜんしょうがい》、家柄、その周囲の人たち――そんなことは、自分の祖先のことすら聞こうとしたことのない笹村には、一顧の価値すらなかった。笹村は時々兄から祖先のことを言い聞かされることがないでもなかった。自分の母親の実家に伝わったいろいろの伝説なども小耳に挟《はさ》んでいた。朝鮮征伐から分捕《ぶんど》って来た荒仏《あらぼとけ》、その時代の諸将の書翰《しょかん》、太閤《たいこう》の墨附《すみつき》……そんなような物をいろいろ見せられた幼時の記憶も長いあいだ忘られていた。時々振り顧って見る気になるのは、自分の体質の似ているといわれた母方の祖父ぐらいのものであった。その祖父は公債を友人に横領されたのを憤って、その男を刺して自分も割腹して死んだといわれていた。零落《おちぶ》れた家の後添えの腹に三男として産れて、頽廃《たいはい》した空気のなかに生い立って来た笹村の頭には、家庭とか家族とかいうような観念もおのずから薄かった。はかない芸術上の努力で、どうかして生きられるものならば……と、それに縋《すが》りついて、この六、七年一日一日と引き摺《ず》られて来た笹村は、お銀との長い将来のことなどは、少しも考えていなかった。
「君の頭脳《あたま》で、まアとにかくあの女を躾《しつ》けて行きたまえ。」
 こう言ってくれた友人の言葉にも、笹村は全く無感覚であった。
 翌日笹村が起きたとき、父親は母親と一緒に茶の間で朝茶を飲んでいた。こうして一緒に茶を飲むなどということの、近来めったになかった母親の顔には、包みきれぬ喜悦《よろこび》の色があった。大分経ってから後で知ったことではあったが、昔二人が狎《な》れ合った時のことが、笹村にも想像され得るようであった。

     三十六

 M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころは不断のようになっていた。注射が効力をもっている間の先生の頭脳《あたま》は、頸垂《うなだ》れた草花が夜露に霑《うるお》ったようなものであった。
「何ともいえぬ微妙な心持だ。」と言って、先生も限られたその時間の消えて行くのを惜しみ惜しみした。
 先生の仕事のもう揚《あが》っている笹村は、慌忙《あわただ》しいような心持で、自分の創作に執りかかっていた筆をおいて、時々先生の様子を見に行った。衆《みんな》は交替に、寂しい病室に夜のお伽《とぎ》をすることになっていた。先生の発言で、めいめい食べ物を持ち寄って、それを拡げながら夜すがら酒をちびちび飲んでいることもあった。お銀は笹村のために、鶏と松茸《まつたけ》などを蓋物に盛った。
「うまいものを食っているね。」などと、先生は戯れた。
 ある日も笹村は、八時ごろまで書いていて、それから思い出して出かけた。雨風のかなり劇しい晩で、町には人通りも少かった。
 床ずれの痛い寝所《ねどこ》にも飽いて、しばらく安楽椅子にかかっている先生の面《おもて》はすっかり変っていた。浅黒かった皮膚の色が、蚕児《かいこ》のような蒼白さをもって、じっと目を瞑《つむ》っている時は、石像のように気高く見えた。髪も短く刈り込まれてあった。先生が睡りに沈んで来ると、衆《みんな》は次の室へ引き揚げた。来合わせていた某《なにがし》の画家が、そこにあった画仙紙《がせんし》などを拡げて、とぼけた漫画の筆を揮《ふる》った。先生や皆の似顔なども描かれた。俳句や狂句のようなものも、思い思いに書きつけられた。夜が更けるにつれて、興も深くなって来た。その笑い声が、ふと先生の睡りをさました。
「あーッ。」と長い溜息が、持て余しているような先生の躯《からだ》から漏《も》れて来た。じろりと皆の顔を見る目のうちにも、包みきれぬ不安があった。
「どれお見せ。」
 いらいらしたような先生の顔には、淋しい微笑の影がさして来た。そして自身にも筆を取って、句案に耽《ふけ》った。
 夜があけてから、一同はそこを引き揚げた。山の手の町には、柿の葉などが道に落ち散って、生暖かい風に青臭い匂いがあった。
「先生は自覚しているんだろ
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