受けのよいことを思わせた。
三十
客が帰ってしまうと、瀟洒《しょうしゃ》な浴衣に薄鼠の兵児帯《へこおび》をぐるぐる捲《ま》きにして主が降りて来たが、何となく顔が冴《さ》え冴《ざ》えしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装《なり》の好みや部屋の装飾《つくり》は、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
奥には媚《なまめ》いた女の声などが聞えていた。草双紙《くさぞうし》の絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もう弄《いじ》りだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、I氏は刻み莨を撮《つま》みながら、健かな呼吸《いき》の音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂《かぐらざか》に見えたのは、大分たってからであった。O氏は去年迎えた細君と、少し奥まったところに家を持っていた。I氏の家を出た笹村は足がまた自然《ひとりで》にそっちへ向いて行った。O氏は二階の手摺《てす》り際へ籐椅子《とういす》を持ち出して、午後からの創作に疲れた頭を安めていたが、本をぎっしり詰め込んだ大きな書棚や、古い装飾品のこてこて飾られた部屋が入りつけている笹村の目には、寂しい自分の書斎よりも一層懐かしかった。机のうえに心《しん》を細くしたランプがおかれて消しや書入れの多い原稿がその前にあった。
二人はO氏の庭に植えるような草花を見て歩いたが、笹村は始終いらいらしたような心持でいながら、書生をつれたO氏にやはりついて歩いた。坂の下で、これも草花を猟《あさ》りに出て来たI氏に行き逢った。植木の並んだ坂の下は人影がまばらであった。そこでO氏は台湾葭《たいわんよし》のようなものを見つけるとそれを二株ばかり買って、書生に持たせて帰した。I氏は花物の鉢を提げて帰って行った。
O氏は残った小銭で、ビーヤホールへ咽喉《のど》の渇きを癒《いや》しに入ったが、笹村も一緒にそこへ入って行った。二人は奥まった部屋で、ハ
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