から折々せつかれる仕事のこともそうであったが、自分がしばらく何も書かずにいることも不安であった。国にいる年老《としよ》った母親から来る手紙に、下宿へ出る前後から、まだ一度も返辞を書かなかったことなども、時々笹村の心を曇らした。笹村は先刻《さっき》抽斗を開けた時も、月の初めに家で受け取って、そのまま袂へ入れて持って来ると、封も切らずにしまっておいた手紙が一通目についた。笹村は長いあいだ、貧しく暮している母親に、送るべきものも送れずにいた。
そこらが薄暗くなっているのに気がつくと、笹村はマッチを摺《す》ってランプを点《つ》けて見たが、余熱《ほとぼり》のまだ冷《さ》めない部屋は、息苦しいほど暑かった。急にまた先生の方のことが気になって、下宿を出ると、足が自然にそっちへ向いた。笹村はこれまでにもちょっとした反抗心から、長く先生に背《そむ》いていると、何かしら一種の心寂しさと不安を感ずることがたびたびあった。
先生はちょうど按摩《あんま》を取って寝ていた。七月に入ってから、先生の体は一層衰弱して来た。腰を懈《だる》がって、寄って行く人に時々|揉《も》ませなどしていた。唯一の頼みにしていた白屈菜《くさのおう》を、ある薬剤の大家に製薬させて服《の》んでいたが、大してそれの効験《ききめ》のないことも判って来た。
笹村は玄関から茶の室《ま》へ顔を出して、夫人《おくさん》に先生の容態を尋ねなどした。
「先刻《さっき》も着物を着替えるとき、ああすっかり痩せてしまった、こんなにしても快《よ》くならないようじゃとても望みがないんだろうって、じれじれしているんですよ、しかし笹村も癒《なお》ったくらいだから、涼気《すずけ》でも立ったら、ちっとはいい方へ向くかしらんなんてそう言っていますの。」
先生のじれている様子を想像しながら、笹村は玄関を出た。
そこから遠くもないI氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下《した》の部屋へ入ると、そこには綺麗な簾《すだれ》のかかった縁の檐《のき》に、岐阜提灯《ぎふぢょうちん》などが点《とも》されて、青い竹の垣根際には萩《はぎ》の軟かい枝が、友染《ゆうぜん》模様のように撓《たわ》んでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえに堆《うずたか》く積んである校正刷りも、I氏の作物が近ごろ世間で一層気
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