ていた。
「私は先生に、何か大きいものを一つ書いて頂きたいんですが……。」
 これまでそんなものをあまり重んじなかった笹村は、汐《しお》を見て頼んで見た。
 先生は、「そうさな、秋にでもなって茶漬けでも食えるようになったら書こう。」と、軽く頷《うなず》いた。
 笹村は黙ってうつむいてしまった。
 二、三人の人が寄って来ると、先生はいつまでも話に耽った。
「お前はこのごろ何を食っている。」
 先生は思い出したように訊《たず》ねた。
「そうでござんすな。格別これというものもありませんですからな。私ア塩辛《しおから》ばかりなめていますんです。」
 O氏は揶揄《からか》うように言った。
「笹村は野菜は好きか。」
「慈姑《くわい》ならうまいと思います。」
「そうさな、慈姑はちとうますぎる。」先生は呟いた。
 笹村は持って行った金の問題を言い出す折がなくてそのまま引き退《さが》った。

     二十五

 出産の時期が迫って来ると、笹村は何となく気になって時々家へ帰って見た。しばらく脚気《かっけ》の気味で、足に水気をもっていたお銀は、気懈《けだる》そうに台所の框《かまち》に腰かけて、裾を捲《まく》って裏から来る涼風に当ったり、低い窓の腰に体を持たせたりして、おそろしい初産の日の来るのを考えていた。興奮したような顔が小さく見えて、水々した落着きのない目の底に、一種の光があった。
 笹村はいくら努力しても、尨大《ぼうだい》なその原稿のまだ手を入れない部分の少しも減って行かないのを見ると、筆を持つ腕が思わず渋った。下宿の窓のすぐ下には、黝《くろ》い青木の葉が、埃を被って重なり合っていた。乾いたことのない地面からは、土の匂いが鼻に通った。笹村は視力が萎《な》えて来ると、アアと胸で太息《といき》を吐《つ》いて、畳のうえにぴたりと骨ばった背《せなか》を延ばした。そこから廊下を二、三段階段を降りると、さらに離房《はなれ》が二タ間あった。笹村はそこへ入って行って、寝転んで空を見ていることもあった。空には夏らしい乳色の雲が軽く動いていた。差し当った生活の欠陥を埋め合わすために何か自分のものを書くつもりで、その材料を考えようとしたが、そんな気分になれそうもなかった。
 往来に水を撒《ま》く時分、笹村は迎えによこした腕車《くるま》で、西日に照りつけられながら、家の方へ帰って行った。窪みにある静かな
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