※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、195−下−22]《はさ》んでいた。
「……とにかく深山のことはあまり言わんようにしていたまえ。そうしないとかえって君自身を傷つけるようなもんだからね。」B―は戒めるように言った。
 笹村は深山との長い交遊について、胸にぶすぶす燻《くすぶ》っているような余憤があったが、それを言えば言うだけ、自分が小さくなるように思えるのが浅ましかった。
「……僕はいっそ公然と結婚しようと思う。」
 女の話が出たとき、笹村は張り詰めたような心持で言い出した。
「その方がいさぎよいと思う。」
「それまでにする必要はないよ。」B―は微笑を目元に浮べて、「君の考えているほど、むつかしい問題じゃあるまいと思うがね。女さえ処分してしまえば、後は見やすいよ。人の噂も七十五日というからね。」
「どうだね、やるなら今のうちだよ。僕及ばずながら心配してみようじゃないか。」B―は促すように言った。
 笹村はこれまで誰にも守っていた沈黙の苦痛が、いくらか弛《ゆる》んで来たような気がした。そしていつにない安易を感じた。それで話が女の体の異常なことにまで及ぶと、そんなことを案外平気で打ち明けられるのが、不思議なようでもあり、惨《いた》ましい恥辱のようでもあった。
「へえ、そうかね。」
 B―は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、196−上−23]《みは》ったが、口へは出さなかった。そしてしばらく考えていた。
「それならそれで、話は自然身軽になってからのことにしなければならんがね。しかしいいよ、方法はいくらもあるよ。」
 蕭《しめや》かな話が、しばらく続いていた。動物園で猛獣の唸《うな》る声などが、時々聞えて、雨の小歇《こや》んだ外は静かに更けていた。
「僕はまた君が、そんなことはないと言って怒るかと思って、実は心配していたんだよ。打ち明けてくれて僕も嬉しい。」
 帰りがけに、B―はそう言ってまた一ト銚子|階下《した》へいいつけた。
 幌《ほろ》を弾《は》ねた笹村の腕車《くるま》が、泥濘《ぬかるみ》の深い町の入口を行き悩んでいた。空には暗く雨雲が垂れ下って、屋並みの低い町筋には、湯帰りの職人の姿などが見られた。
「今帰ったんですか。」
 腕車と擦れ違いに声をかけたのは、青ッぽい双子《ふたこ》の着物を着たお銀であった。
「どうでした
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