ざんすか。それさえ御承知なら、娘も当分親類の家にぶらぶらしておりますもんだで……。」と、婆さんは立つ前に、重苦しい調子でこんな話を切り出した。
 お銀がそのころ、夕方になると、派手な浴衣《ゆかた》などを着て、こってり顔を塗っているのを、笹村は見て見ぬ振りをしていた。
「困るね、あんな風をされるようでは。君からよく言ってくれたまえ。近所でも変に思うから。」笹村は蔭で深山にそのことを話した。それでもこの女の時々|助《す》けに来るということは、そんなに厭わしいことでもなかった。お銀が来るようになってから、一々自身で台所へ出て肴の選択をする必要もなくなったし、三度三度のお菜《かず》も材料が豊かになった。これまでに味わったことのない新漬《しんづ》けや、かなり複雑な味の煮物などがいつも餉台《ちゃぶだい》のうえに絶えなかった。長いあいだ情味に渇《かわ》いた生活を続けて来た笹村には、それがその日その日の色彩《いろどり》でもあった。
「それでは娘はお預けして行きますで……。」と、婆さんは無口で陰気な笹村なら、安心して娘をおいて行けるといった口吻《くちぶり》であった。
 家はじきに甥とお銀と三人の暮しになった。お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。そして夜更けて帰ることもあった。笹村が、書斎で本など読んでいると、甥と二人で、茶の間で夏蜜柑《なつみかん》など剥《む》いていることもあった。
「真実《ほんとう》に新ちゃんはいい男ですね。」お銀は甥の留守の時笹村に話しかけた。甥は笹村の異腹《はらちがい》の姉の子であった。
「叔父甥と言っても、ちっともお話なんぞなさいませんね。見ていてもあっけないようですね。その癖新ちゃんは、私にはいろいろのことを話します。来るとき汽車のなかで綺麗な女学生が、菓子や夏蜜柑を買ってくれたなんて……。」
「そうかね。」笹村は苦笑していた。
 甥に脚気の出たとき、笹村はお銀にいいつけて、小豆《あずき》などを煮させ、医者の薬も飲ませたが、脚がだんだん脹《むく》むばかりであった。
「医者が転地した方がいいと言うんですよ。大分苦しそうですよ。それで、叔父さんに旅費を貰《もら》ってくれないかって、私にそう言うんですがね。田舎へ帰してお上げなすったらどうです。」
 間もなく笹村は甥を帰国の途につかせた。通りまで一緒に送って行って、鳥打の代りに麦藁《むぎ
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