いをしたが娘はあまり顔出しをしなかった。
使いあるきの出来ない母親の代りに、安くて新しい野菜物を、通りからうんと買い込んで来た娘が、傘《かさ》をさして木戸口から入る姿が、四畳半に坐っている笹村の目にも入った。
見なれると、この女の窄《つぼ》まった額の出ていることなどが目についた。
この女が、深山の若い叔父《おじ》の細君と友達であったことがじきに解って来た。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の子息《むすこ》であった書生を、その叔父の妻君であった年増《としま》の女が、横間《よこあい》から褫《うば》って行ったのだというようなことも、解って来た。
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことをあまりよくも言わなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知ってますよ。」女も笹村からその話の出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪《うちわ》のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
母親も閾際《しきいぎわ》のところに坐って、そのころのことを少しずつ話しはじめた。
「それでお鈴という女は、あんたのその男と一緒ですかね。」笹村は壁に倚りかかりながら、立てた両脛《りょうすね》を両手で抱えていた。
「いいえ、それはもうすぐ別れました。そんな一人を守っているような女じゃないんです。深山さんの叔父さんという方も、私よく存じております。この方もじきに後が出来たでしょう。」
娘は低い鼻頭《はながしら》のところを、おりおり手で掩《おお》うようにして、二十二にしては大人びたような口の利き方をした。
「随分面白いお話なんです。」
笹村はそんな話に大した興味を持たなかった。相手もそのことは深く話したそうにもなかった。
「ほんとに不思議ですね。」娘は少し膝《ひざ》を崩《くず》して、うつむいていた。
五
幼年学校とかの試験を受けに来た甥が、脚気《かっけ》の気味で、一時国へ帰る前に、婆さんはその弟の臨終を見届けに、田舎へ帰らなければならなかった。
その弟が、いろいろの失敗に続いて、いたましい肺病に罹《かか》り、一年ほど前から田舎へ引っ込んでいたことを、婆さんは立つ前に笹村に話した。
「私が帰って来るまで、娘をおいて行ってもようござんすが、若いもののことだでどうでご
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