屋《あばらや》は、そうしていると山寺にでもいるように、風も涼しく気も澄んでいた。
 じきにお銀が子供を負って来て、笹村の傍において行った。
「お願い申しますよ。狭いところを危くてしようがありませんから。」
 子供は白い女唐服《めとうふく》を着ながら広い部屋のなかを、よちよちと笹村の跡へついて来ては歩いていた。そして少し歩くと畳の上に尻餅を搗《つ》いた。口も少しは利けた。
 落ち着いてからも、井戸の遠いことや、畳のじめじめする茶の間の陰気くさいことが、女たちの苦情になっていたが、笹村は初めて庭の広い家へ来たのが、心持よかった。そして外へ出ると、時々|配《わ》けてもらった草花を、腕車《くるま》の蹴込《けこ》みへ入れて帰って来た。中庭の垣根のなかには、いろいろのものが植えられた。中にはお銀と二人で、薬師の縁日で買って来たものもあった。
 子供は靴をはいて、嬉々《きき》と声を出して庭を歩き廻った。笹村はそれを前庭の小高い丘の上へ逐《お》いあげ逐いあげしては悦んだ。
 お銀は少しずつ家に馴れて来たが、それでも日が暮れてからは、一人外へ出るようなことはめったになかった。夜もおちおち眠らないことが多かった。
 桜の葉が黄ばんで散る時分に、妊娠の徴候がまたお銀の体に見えて来た。

     四十四

 お銀からその話を聞かされた時、笹村は、
「また手を咬《か》まれた。」というような気がした。そして責任を脱れたいような心持は、初めての時よりも一層激しかった。
 次第に好奇心の薄らいで来た笹村は、憑《つ》いていたものが落ちたように、どうかすると女から醒《さ》めることが時々あった。そんな時の笹村の心は、幻影が目前《めさき》に消えたようで寂しかった。そうして一度|頓挫《とんざ》した心持は、容易に挽回《とりかえ》されなかった。厭わしいような日が幾日も続いた。
 そんなことはお銀にも同じようにあるらしかったが、冷熱はいつも男よりか順調であった。
「あなたは人を翫弄《おもちゃ》にする気だったんです。あの時の言い草がそうだったんですもの。男はずうずうしいものだと、私はそう思った。」
 お銀は以前の話が出ると、時々そんなことを言って淋しそうに笑った。
「何だかおかしいようだね。」
 笹村は、腹を気にしているお銀の顔を眺めながら言った。
「二タ月も三月も隔たっていて、それで子ができるなんて……。」
 
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