い山内の空気は、少しも仏寺らしい感じを与えなかった。寄附金の額を鏤《ほ》りつけた石塔や札も、成田山らしく思えた。笹村は御護符《おごふ》や御札を欲にかかって買おうとするお銀を急《せ》き立てて、じきにそこを出た。
周りに梅の老木の多い温泉宿《ゆやど》では、部屋がどれもがら空きであった。お銀は子供をお手かけ負《おんぶ》して、翌日《あくるひ》も一日広い廊下を歩いたり、小雨の霽《は》れ間《ま》を、高い崖《がけ》の上に仰がれる不動堂へ登ったりした。梅園には時々|鶯《うぐいす》が啼いて、その日も一日じめじめしていた。
「やっぱり自分の家が一番いい。」
夕方雨戸が繰られるころになると、お銀は広い部屋に坐っていながら言い出した。
四十
子供が掴《つか》まり立ちをするころに、K―の手から裏の大工へ譲り渡されたその家を、笹村は立ち退かなければならなかった。大工は買い取るとすぐ改築の目算を立てたが、それ以前にK―から分割して借りていた裏の地所に、新築の借家がもう出来あがっていた。K―の借家は失敗に終ったが、大工の方は四軒建てて四軒とも明きがなかった。
「裏へ家が建つようでは、ここにもいられませんね、おまけに二階家と来てるんですもの。」
「出来あがったらそっちへ移ってもいいね。」
笹村とお銀とはこんな話をしながら、時々裏へ出て見ていたが、家はいずれもせせッこましく厭味に出来ていた。
壁が乾かぬうちに、もう贅沢な夜具やランプなどを担ぎ込んで来る人もあったが、それは出来星の紳士らしい、始終外で寝泊りしている独身ものであった。
「あの家は何をする人でしょうね。仕事に失敗して、どこか下町辺から家を畳んで来たらしいんですよ。」
お銀は手摺りに干してある座蒲団の柄合いなどから、その人柄を嗅《か》ぎつけようとしていた。
ある寒い朝、十時ごろに楊枝《ようじ》をつかいながら台所へ出て来た笹村の耳に、思い出したこともない国訛《くになま》りで弁《しゃべ》っている男女の声が聞えて来た。それがこっちの裏口と向い合っている真中の一軒へ入って来た若い夫婦であった。
背のすらりとした、目鼻立ちのよく整ったその細君と、お銀はじきに懇意になった。気心が解って来ると、細君は茶の室《ま》へあがって来て、お国言葉丸出しで自分の身のうえを明け透《す》け話した。夫婦はついここへ来るまで、早稲田の方で下宿屋
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